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グレーの事

 たっぷり寝た。頭もクリアーで、身体も元気いっぱいだ。この日常という現実と、死に至る病との乖離そのものが「グレー」という生検の表象なのかもしれない。そんなふうに考えてみたこともあった。ネットで検索をすると、「グレーゾーン」というものが存在するのを知った。もとより金利のことでも、写真のことでもない。日々新しい発見の連続ではあるのだが、いざ己の病のこととなると、頭では理解できても、「グレー」という生検の結果について、まったくもって腑に落ちなかった。腑に落ちないから、揺らぐのだ。ならば揺らぐままに身をまかせればいいではないか、と開き直って執筆を続けるのだが、治療をすべきか否かは患者たる己が決断を下さなければなあらない。しごくあたりまえすぎることではあるのだが、あたりまえのことをあたりまえに書くことほど難しいことはない。そう書いている間にも、現実の病を作家の事情ととらえている己がいる。清野栄一という作家でもなければ、こんなことは起きないのだろう。数学のほかに、最新のケインジアンモデルとマネタリストの論文はおろか、ある出来事や物事を、ひとつひとつ確かめながら、三十年以上も昔に経済学部に提出した「ニーチェとエピクロス」について書いた卒論の中にある『ルクレティウス・トゥルニエ』とクリナーメンについての言及を読み直していた。物事はどうやって決まるのか。ズレて乖離するのか。「グレー」は存在し得るのか……病は経済学でも社会思想でも、まして哲学や現代思想でもない。掛け値なしに文学好きな口腔外科医の彼ならわかっているはずだ。

「おはよう! 今日も暑いけど、食べてるかい」
「思ってたとおり、君か!」
「生検はどうだったんだい?」
「それがグレーだったんだ」
「すると、二十九日にもう1度説明があって再来週には手術なのかな?
 想定していたよりも良い結果だったので、良い方向だと思う。
 と言っても、手術はやった方が良い、とのことなので、もろ手を挙げての朗報ではないだろうけど、朗報ということになるだろう。
 がん確定で手術するよりも、グレーで手術するほうが、手術の範囲も小さくてすむだろう。従って手術の侵襲も小さいので、後遺症も小さくて済むだろう。
 しかも、早々に二週間後には手術をしてくれるというなら、早いに超したことはないんだから。
 個人的に僕が君なら手術をしてもらうだろう。
 グレーというのがどういうことかというと、放射線治療と抗がん剤が奏功して、その死滅した壊死細胞がそこに残っているということかな。
 口腔がんでも、通常は放射線治療と化学療法を最初にして、できるだけがんを小さくしてからそれを取り切る。それが基本ではあるので、この死滅した状態で切除するの順当に理にかなった治療とも言える。そして、グレーゾーンの今なら、がんを手術して根治できるということだ。
 もちろん、医師も根治する覚悟で手術に臨むだろう。
 手術中に即時生検をしながら手術範囲を決めて、飛び散っているかもしれないと思われる範囲を含めて確実に手術するはずだ。
 君がもし、亡くなったお父さんのように八十歳を過ぎたの老人であれば、様子をみましょうかになるかもしれないが、君はまだまだ若い。医師としては積極的に手術をして、できるなら今、がんを根治したいところだろう。
 そして根治できると思う。
 治療はこれからで不安もあるだろう。良かったとは言えないけれど、良い方向だ。
 その後のことは、またその状況で考えれば良いよ。
 君が言っていたように、ほかの治療方法はいくらでもあるけど、今の君の段階ではないと思う。
 生検をして、その結果が今回出て、その結果に応じて手術範囲を決める。それは真っ当な正攻法だと思う。
 もちろん、君だけではなくて、みんな心は揺らぐよ。本当の意味で100%の正解はがんに関してはないからね。
 免疫力をあげてがんがなくなる人もいるだろう。免疫をあげればがんが治るというのは一般的な見方なんだよ。それは確かにそうでもあるが、不確定でもある。数値化できない。前に話したエビデンス至上主義の問題とも違うんだ。
 免疫力は、睡眠、食事、運動、生活……つまり人による。日々免疫をどうコントロールすれば良いのかも難しい。そこをどうコントロールするかだが、日々不安定だし、確実性はないだろう。
 今の病態に良いと考えられる治療法を選択するしかない。その方法がいちばん良いと思うかどうか。それは最終的には自分が1番良いと信じるしかない部分が多いからね。
 君のように放射線治療をした場合、できるだけがんを小さくしてからそれを取り切る。 それが基本ではあるので、グレーという死滅した状態で切除するの順当に理にかなった治療とも言える。
 その場合、確実にターゲットを絞って最大効果を発揮させるというのは西洋医学の基本だから、免疫力のような不安定で複合的な概念は医者にとってもコントロールが難しいんだ。治ることもある、治らないこともある、というのでは医師としては治療目標も立てにくいだろう。
 放射線治療をして、死滅した壊死細胞がリンパ節に残っているということは、死滅してない細胞もあるかもしれない。
残っている細胞が0ではなならば、がん細胞は増殖する可能性は十分にある。そういうことなら、全部切除した方が良いだろう。
 そういうことだ。
 今の君の状態で、しかも黒ではなかった白でもないグレーの状態で、黒よりも切除をして根治しやすいのに、あえて不安定な免疫力に頼るのはどうなんだろう? どちらが治癒率が高いか? 当然前者になるわけだ。医師としてはそう考えるだろう。
 ただ、患者にとってはどうか?
 手術であれ免疫療法であれ、自分のがんだから、治れば100、治らなければ0なので、リスクとしては同じだろう。
だから自分自身のこととなれば思い悩むのも当然なんだ。
 最終的には医者が治すというよりは、自分の体が病気を治すわけなので、免疫力をあげがん細胞が消える人もいるかもしれない。聞いたことはあるけど、実際に僕は経験したことはないし、周囲でも誰もいないけど。
 がんの病態にならず、健康体に戻るほどに治す。
 それが医師の役目だ。
 理論上は毎日細胞のコピーミスが遺伝子レベルで起きて、
毎日がん細胞はできているが、白血球の免疫系統にあたる貪食細胞ががん細胞をくっちゃうわけだ。
 それが過剰に働く人も中にはいるだろう。そういう人はがんが消えるのかもしれない。
 見たことないけど。実際に見た人もいない。
 がんの病態にならないようなところまで不可逆的にがんにならないようなところまでサポートをするのが医者だろう。がんに不可逆的にならないところまで。
 そして健康体に戻していくのが自分の体であり免疫だから。
 あとは手術の成功を信じて臨むだけだ。
 体力をつけてご飯をしっかり食べて、免疫をあげて、手術に臨んでください。僕も完治を心から祈っているよ」


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