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「あと2時間で終わる6月2日」
夜の高速道路でアクセルを踏みつけた。フロントガラスにたたきつける大雨をワイパーが吹き飛ばす。ヘッドライトに照らされた道路標識が、一瞬後には吹き飛ばされていった。雨で滲んだ暗闇に目をこらす。ラジオのボリュームを上げた。爆音で雑音を聞きながら、ひと月前に目にした桜と桃とリンゴの花が一度に咲いていた信達の風景を思い浮かべてみようとした。信達は生まれ育った盆地だが、あんな景色を見たのははじめてだった。闇に隠れた山肌を探す。フロントタイヤが滑りはじめる。ずきずきと痛む奥歯と首筋のあたりに手をあてがってみる余裕もない。アクセルを踏んでいるふくらはぎがつりそうになってブレーキを踏んだ。セルコンが切れる。雨で滲む道に目を凝らす。トンネルに入るたびに思い出すことがある。リノリウムの床に青白い蛍光灯のあかりが照り返す洞穴のような廊下。はじめて長い入院をしたのは、まだ二歳か、三歳の時だった。手術室へ向かう廊下の果てに、おもちゃを抱えた母が立っている。こちらを見つめている黒い影を追いかけたいのに、なぜかどんどん遠ざかってしまい、見えなくなった。タイル張りの手術室。眩しい光。全身麻酔。世界が消えた。セルコンをONにしてスピードをあげる。ひきつった背筋にGがかかる。かみしめた奥歯に激痛が走った。登坂車線をしばらく流す。ついこないだまで寝込んでいた病みあがりの身体が悲鳴をあげている。東京の自宅から300キロも離れた歯医者へ向かおうとして妻に言われた。「6月2日は、日曜日で、休診だよ」。カレンダーを観るまでもない。妻はたいがい正しいのだ。だからなにがなんでも行かねばならない。がんはやっかいでわけのわからない病気だ。がんに詳しい人や、肉親のがんをまのあたりにしたことがある人ならば、あたりまえだろう、と思うかもしれないが、いざ己ががんになったとたん、わからないことだらけの不安に放り込まれた。己の病気について自分で調べるようになったのは、長い治療が終わり退院してからだった。入院前に病名をネットで検索もしなかったのだ。退院後、毎月検査を受けるたびに、己のがんについて振り返ることになった。がんは己の体内に宿った悪性新生物だ。彼のことを振り返った頃には、姿が見えなければいいのだが、彼の足跡が残っていたり、似たようなやつが隠れていたり、堂々とひょっこりあらわれたりもする。できれば再会したくないのだが、それすらもわからないことがある。わからないなら確定したいが、それもできないことがある。彼がもし虚構なら、理屈はともかく腑に落ちればいいのだが、と思いかけて、ちょっと待てよ、と引き戻された。そもそもがんは彼じゃなくて己の免疫の問題だろう。納得したいの間違いじゃないのか。現実となったがんは、ほうっておけば死に至るかもしれない病なのだ。確定された爆弾を抱えて過ごすよりは、践んでみないとわからないグレーな地雷のほうがまだましかもしれない。考え込むほどストレスで仕事もままならず、友人にメールを書こうとして、一年前に送ったメールを読み返した。長いメールを送りつけるのは悪癖だとわかっているが、がんの経過観察はこういう仕組みなんだよと独りごち、PET撮影の予定日を確かめた。閏年まで計算に入れたように、きっちり一日遅れになっているじゃないか。行きつけの歯医者でがんが見つかったのは、「あと2時間で終わる6月2日」だ。ステージ2が確定する二週間前の同じ日に、大雨の中車を飛ばしてたどり着いた先で誤嚥して血痰を吐きメールを送信したのは朝だった.