「SILK to HAIKU」 町村合併と町史
叔父や同級生と電話をしながら、意図せず「町村合併」の話になった。
伊達市は以前「伊達郡」だったのだが、保原町や霊山町は合併して「伊達市となるも、桑折や国見は今でも「伊達郡」のままだ。
合併のよしあしについて語るほどの知見はもとより持ち合わせていないのだが、「町が寂れる」というのが、今のところの現実なのだろうと思った。
町史に戻ればそうか! 合併してなくなった町の「町史」を読んでいたのか、と今さらのように驚いてまたページをめくる。
町史の記載にも間違いが多々あるのだが、再販されることはない「町史」である。
仕事柄、郷土史を調べる機会は多い。多くの郷土史は、古代から現代までの「通史」に加えて、時代ごと、あるいは分野ごとの資料集まで含めると数巻にわたるものが少なくない。全六巻からなる『保原町史』も同様である。
『保原町史』の成立経緯をみると、「第四巻・民族」「第三巻 資料 近代・現代」「第二巻「資料 原始・古代・中世・近代」……と続いて、「第一巻 通史」はいちばん最後に刊行されている。郷土史の編集方針として、あまたの資料を収集・分析しながらまとめられるものであるのを考えれば頷ける。
第二巻冒頭にある「序ー監修を終えてー」において、 編集顧問をつとめた東京大学教授、大石喜一郎(当時)はこう記している。
「現存する古代・中世の文書資料には、直接的に保原町の姿を示してくれる資料がほとんどありません」
(中略、清野による:多くの資料が主に支配者の資料であり、我々町民の姿は間接的に垣間見ることしかできないとした後で)
「保原町城の村々の姿がまっきりした形で資料に登場してくるのは、上杉藩領から幕領に移り、総検地が行われ、近世村落が確立してくる十七世紀後半の寛文・延宝時代以降であります」
盆地を囲む山沿いの霊山・阿津賀志山・大森、そして、盆地に浮かぶ島のようなモナドノックの信夫山には、江戸時代より古い史跡が多く残っている。 進達は四方を山に囲まれた典型的な盆地で、ひょうたん型の盆地を阿武隈川が流れている。数年前の大雨でも堤防が決壊した阿武隈川が整備されたのは江戸時代になってからだ。
とここまで書いたところで、阿武隈川は白河を経ているのに気がついて、またぞろ「退閑雑記」を読み返している。