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内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』

この記事は、日本俳句教育研究会のJUGEMブログ(2021.08.08 Sunday)に掲載された内容を転載しています。by 事務局長・八塚秀美
参照元:http://info.e-nhkk.net/

タイトルに惹かれて手に取りましたが、日本人がキツネにだまされなくなった理由を解き明かすことが目的の著書ではなく、タイトルの問いについて、丁寧に考察していく前半は前振りにすぎません。キツネにだまされることがなくなった日本人が生きる現代を、「歴史哲学」の視点から捉え直そうとする著書で、歴史とは何か、近代史とは何か、そして、私たち日本人の自然観、死生観にまで話が及んでいく、純粋に面白く知的好奇心を刺激される一冊でした。

歴史哲学とは、歴史の本質・目的・意味などについて考察していく哲学の一分野なのだそうですが、「キツネ」の物語という具体例があることで、哲学の分野に暗い私でも、歴史哲学ならではの独特の把握の仕方を違和感なく受け入れていくことができました。

個人的に一番面白かったのは、かつて自然に包まれ、共同体に包まれてきてきた日本人が、自然のままに生きようとしながらも、人間の本性である「自己」「我」「個我」を持つ故にありのままに生きることができず、自己の持つ「人間らしさ」に不安を感じ、だからこそ「おのずから」ある清浄な自然に畏敬の念を持つようになった。そして、「おのずから」ある生命的世界を、目に見えるものに仮託しようと神や村の物語が生み出されていったというくだりでした。

日本の伝統社会(村)は、知性によってとらえられた歴史・身体によって受け継がれてきた歴史・生命によって引き継がれた歴史の三つの歴史が切り離されずに存在している社会であり、そこにはキツネにだまされる物語が生まれた。それは、1960年代の高度成長期を経て、知性によってとらえられた歴史のみが肥大化している現代の私たちでは諒解することのできない物語であり、人間と自然とのコミュニケーションの変容により失ってしまった物語なのでした。