![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/123831866/rectangle_large_type_2_229e3ffd65d978f2f44e816192a15fb7.jpg?width=1200)
【エッセイ】あの時愛していると言って抱きしめていたなら
いきなりですが、私にはひょうきんで天然でお父さんLOVEでかなりマイペースなB型のお母さんが居ました。
沢尻エリカさん主演のドラマ『1リットルの涙』を、勝手に涙の量を減らし『スプーン一杯の涙』と間違えて覚えてしまうような、
友達と電話するのが大好きで3時間4時間も大きな声で爆笑しながら電話してしまうような、
お父さんのことが大好きで人生で一度もお父さんの前でおならとう○ちをしたことがないような、(だいぶ乙女なんです)
朝、皆を起こす時は1階のキッチンから天井目掛けて2階で寝ている私たちのベッドの真下からモップの棒で突っついて起こすような(かなり振動がきて、うるさいんです)
スーパーで大学生にナンパされたと舞い上がり、その日の晩御飯が料亭のフルコースのようになるような(最初で最後のフルコースでした笑)
そんな、お母さんです。
私の家族は5人家族で両親と兄2人と私という構成で、女性は母と私だけ。なので私たちは女性同士親友のように仲良しでした。どれだけ仲良しかというと、ショッピングに一緒に行くと必ず私の腕に母の腕を絡ませてきて、まるで女子高生みたいなことをするんです。流石に恥ずかしいからと外そうとするけど小学生みたいに意地になって外してくれない。もぉ流石に後半は諦めてました(笑)
そんな母に対して今回は私が人生で最も後悔していることがあるのでそのお話しをさせて頂きたいと思います。
平穏な日常から
そんな家族の太陽みたいな存在のお母さんが『すい臓癌』と診断されたのは私が22歳、母が52歳の時でした。
余命は持って1年。
仕事中に父からこのことを聞いた私は泣くわけでもなく
ボーッと沈みかけの綺麗なオレンジとも赤ともいえる夕日を見ていたのを覚えています。
ある日突然、最も身近な人が余命1年です。
と言われても実感というのは沸かないもので、
私はどこか『お母さんなら、大丈夫』という不確かな自信がありました。
母自身も打ちひしがれるわけでもなく、これから前向きに治療していくぞ!という姿勢で娘から見ていても強いなぁと感心するほどで。
そして、がん宣告から2ヶ月後の年明け、
1月5日の朝に癌の摘出手術が行われました。
予定では5〜7時間を超えるといわれていたので集まった私たちは長丁場に備えて待機していたのですが、手術室が開いたのは2時間経たないくらい。
お医者さんに話を聞いてみるとすい臓だけではなく肝臓にまで転移していたらしく一度手術は中断して、抗がん剤治療に切り替えるということでした。
母にどう接して良いのか分からないまま、
とりあえずICUにいる母の元へ行くと麻酔から覚めた母はボーっとしながらも時計を見て
「あぁ早かったね〜、ダメだったのか」
と冷静に状況を把握して、黙り込んでいました。
なぜこの時すぐに時計を見たのかは分かりませんが、きっと癌が転移していることを事前に感じ取っていたのではないかと思います。
それから始まった抗がん剤治療ですが、髪の毛が抜けるような種類ではなかったため割と病気前と変わらない生活が2年ほど続きました。
むしろ、抗がん剤治療を終えて帰ってきたその日は
「病院の先生と抗がん剤治療の担当の看護師さんが面白いのよ」と、
その日の面白エピソードを話してくれるほど。
私がイメージしていたツラい治療生活とは到底かけ離れた生活をしていたのです。
余命1年という宣告をされてからすでに2年が経ち、
入院するわけでもなく自宅から病院に通っている母を見て私は余計に
『やっぱりお母さんは大丈夫だ』
という確信を強めていったのでした。
抗がん剤治療の後は体がダルくなったり、味覚が代わりご飯の味が砂みたいになる、という以外は特にツラい様子もなくいつも通りの少し天然なお母さんでした。
背中
ある冬の夕方の薄暗い時間帯。
電気を付けるか付けないかの微妙な暗さの中、私は本屋さんに行こうと支度を始めていました。
お母さんはいつものようにコタツに入り、テレビをつけながら大好きなクロスワードをして、みかんを頬張っていました。
いつもと変わらない、いつものお母さん。
私の家の玄関はリビングの隣で、出入りをする際は必ずリビングを通るんです。その日も玄関で靴を履いているとこちらに背中を向けていた母がポロッと
『お母さんの腫瘍ね、
大きくなってるんだってー…』
といきなり、
テレビで声がかき消されそうなくらいの声量で、
でもトーンは明るさを装いながら言ってきたのです。
その日はいつもの定期検診でした。ここ最近は定期検診に行くたびに癌が小さくなっていて前回の定期検診では1cm未満にまでなっていたんです。
だから母を含め、家族全員、本当に癌を克服すると信じて疑わなかった時期で。
腫瘍が大きくなっているということは前回の検診から3ヶ月足らずで抗がん剤が効かなくなって元の発見時の大きさに戻ってしまったということなんです。
だからその言葉を聞いたとき、頭が完全にフリーズしてしまって。
さらに病気になってから一度も涙を見せなかった母の肩が上下に小刻みに震えているのをみて、
「お母さん、泣いている。」と気づいた途端
急に怖くなったんです。
涙を流す、泣くって行為は、そうなるかもしれないと思うから泣くってことで、この2年と半年の間私たちは治ると信じていたから泣く機会がなかった。
でもお母さんが泣いているのをみて、急に " 死 " というものが私に近づいてきて、とてつもない恐怖が襲ってきました。
『お母さん、死ぬかもしれない』
と初めて実感した途端、ジワジワと私の目から大量の涙が溢れてきていました。
でも幸か不幸か背中を向けている母には私の顔は見えていないから泣いているのを知られていない。早く何か言葉をかけてあげなきゃと思っているのに涙で喉が詰まってなかなか言葉が出てこない。
頭が混乱して気持ちばかり焦って、出てきた答えは
『きっと私が泣いていると知ったら
お母さんはやっぱり自分はもうダメなんだ』
と思ってしまうんじゃないか。でした
今私がお母さんと長く話したらきっと私は堰を切ったように泣き出してしまう。短い時間の中で瞬時にそう判断した私は
『な〜んだ、そんなの大丈夫よ!病気なんて気持ち次第よ!』と
泣いているのを悟られないようになるべく明るめに平常心を装って
それだけ言って泣いている母を置いて逃げるように家を飛び出したのでした。
弱虫な私
それから車に乗って家を出た途端に、声を出して泣きじゃくったのを覚えてます。
怖くて怖くて怖くて
とにかく逃げるように家の近くの海まで行って夜中まで泣きじゃくりました。泣いてもどうしようもないとわかっているのにその日は涙が止まってくれなくて。
お母さんの震えている肩が頭から離れなくて
逆に自分の震えている肩を抱きながら涙が乾くまで
「なんでお母さんなの!なんで、なんで!」
って、子供みたいに泣きじゃくりました。
どうしたら良いのか分からなくて
ただただ星に泣きながらお母さんを助けてとお願いしました。
でも、お母さんはその日一度だけ涙を流して、
それから一切泣くことはありませんでした。
今まで割と平気だった抗がん剤も強めの種類に変えた後からは
嘔吐が止まらなくなり、ご飯も段々食べられなくなっていきました。
突如嘔吐が始まってトイレまで間に合わなくて、床を汚してしまった時は
掃除している私に向かって
『こんなことさせてゴメンね、汚いよね、ゴメンね』
と逆に私を気遣ってくれたりして。
辛いはずなのに、弱音吐きたいはずなのに誰よりも強くて、
『そんなこと気にしないよ!いいに決まってるじゃん!!』
とそれくらいしかできない自分がまた不甲斐なく、
情けなくて唇を噛み締めて毎日涙を堪える弱い私でした。
元々、抗がん剤治療より、自然療法を進めていた私は辛そうな母に何度も抗がん剤を辞めようと言いました。でも母は今の先生と看護師さんに治療をして欲しい、一度腫瘍も小さくなったから頑張ればまた小さくなる。と頑なに聞いてくれず、私はそんな母にしょちゅう怒っては家を飛び出していたのでした。
説得もできない、何もできない、ただ辛そうで弱っていく母を見ているだけの自分が悔しくて、あの日を境に強い母とは対照的に、私はたくさんたくさん泣きました。
最後の日
母はとても強い女性でした。
治療で苦しくても、癌が転移しても決して私たちに涙は見せませんでした。
むしろ、死を受け入れていて
ふと私との会話の中に
「ここの葬儀会場はいいね〜」
「お母さん、あの写真がお気に入りだからよろしくね」
などと、終活的なことを度々言ってくるのでした。
私はそれがとても嫌で。そんな言葉お母さんの口から聞きたくないし、死を受け入れたくなくて、いつも会話をはぐらかしては母と向き合うのを避けていたんです。病気になる以前の私たちのように振る舞っておけばお母さんはきっと大丈夫だと。
どんなに癌が進行してもやっぱりバカな私はまだ心のどこかで
『お母さんなら、大丈夫』と思っていたのでした。
最後のお別れの日。
お父さんが自分の頬をお母さんの頬に擦り寄せて
「今までありがとう、愛しているよ」
と泣きながら言ったとき
お母さんの目から一筋の涙がこぼれました。
あんなに辛くても涙を見せなかったのに、
痛み止めのモルヒネで意識は朦朧として話しもできない状態なのに
大好きだったお父さんにはやはり、母は敵わなかったようです。
その一筋の涙に父と母の寄り添った35年間が詰まっているような、
それが『真実の愛』のようなものを初めて目にしたように思います。
私はというと、最後の最後にやっと死を受け入れて
「産んでくれてありがとう、お母さんの元に降りてきてよかった」
と声を絞るように言えたのでした。
12月の寒い月が綺麗な夜に母は56歳で旅立ちました。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/123822347/picture_pc_8dca5d9ab0de4153f9cd8c17e013bfbe.jpg?width=1200)
あの日、愛していると言って抱きしめていたなら
誰かの死には必ず後悔というものはつきものです。
生きているうちに「あぁしとけばよかった、もっと〜しとけばよかった」とたらればを繰り返してしまうもの。
私もそのうちの1人で、
あの日、母が背中越しに涙を見せた日。
唯一その日だけ弱い部分を見せてくれて、
助けて、怖い、って私に訴えかけていた日。
なぜ逃げずに向き合わなかったんだろう
なぜ後ろから力強く抱きしめて
一緒にたくさんたくさん泣いて、そして泣き終わった後に
「大丈夫、一緒に乗り越えていこう、
家族皆お母さんを愛しているよ、みんなで全力で支えるからね、1人じゃないよ!諦めずに前を向いていこう!」
って恥ずかしがらずに言えなかったんだろうって。
もしあの日、それが出来て、
もっとお母さんと正面から向き合って
"死" というものを怖がらず、避けずに
逆に病気を通してお母さんと一緒に人生というものを学んで深い話をして
もっと素直にたくさん恥ずかしがらずに愛を伝えられていたなら…
もしかしたらお母さんの人生は変わっていたのかな。
なんて思ったりするわけです。
そしてもっとお母さんの生まれてからの人生について聞いておきたかったと。
母の”死”を通して私は
人生とは何か、
生きることとは何か
時間の大事さ
というものを学びました。
故人に対しての人生の後悔は、
今生きている人への愛の還元へとつながると思うのです。
私の後悔、「愛しているともっと言えばよかった、抱きしめればよかった、もっとオープンになんでも話せばよかった」は母の死後、パートナーや残された家族に向けてお母さんからの教えを通して還元されています。
最後に
私たちには【言葉】と【体】が与えられています。
特に言葉は地球上で唯一私たちに与えられているものです
でもその言葉の中でも美しいとされる言葉を
なぜか私たちは恥ずかしがり、滅多に使わずにいます。
一言、言うだけでその人を笑顔に、幸せに出来る美しい言葉たちです。
天国にはお金も体も持っていけません。
生活するのに大変な世の中で日々を生きるのに精一杯になり
仕事ばかりになる毎日。何のために生まれてきたのか疑問になることがきっと生きていく中で多々あると思います。
でも私はそうなったとき
ふと、お母さんのことを思い出して
「天国にはお金も体も持っていけない、この世界に生きている間はお金を無意味に追うのはやめてこの体があることに感謝して、この体があることで出来ることを精一杯しよう。そして言葉を使って愛を伝えていこう」
と思うようにしているのです。
もし、今この記事を読んでいる方で大切な人がまだ側にいる場合は
恥ずかしがらずにたくさん愛の言葉を交わしてください、
「愛している、大事だよ、いつもありがとう」と。
そして与えられた体を使って、温もりを感じてみてください
その両手を使って大切な人を力強く抱きしめてあげてください。
もし、逆に大切な人を亡くしてしまったという方は
周りの残された方達にに愛の言葉をかけてあげてください
そして抱きしめてあげてください。
そうすることできっとあなたが愛を伝えた人たちを通して故人も喜んでくれると思うのです。
悲しみに暮れて、後悔する日々はもう終わりにしましょう。
人は皆、平等に死というものが待っています。実感はないけれど、必ず来るものです。
でも命が終わる日は同時に【寿命】と言ったりします。
ことぶき、と書いて寿です。命が終わるというのはまた新たな始まりという意味で本来なら祝うべきことなのかもしれません。
今日はお母さんが天国に行ってから9回目の命日。
綺麗なお花を買って
この頂いた体を使って美味しいものを食べて
お母さんの思い出話しをたくさんしようと思います。
最後まで読んでくださってありがとうございます🕊️🌿
今日という日が皆さんにとって愛で溢れますように