自分の価値観が変わる瞬間
メイクを変えてみる、ファッションを変えてみる。
美容院へ行ってバッサリイメチェン。
ダイエットやワークアウトに奮闘して、新しい自分に出会う。
そうやって、目に見える方法で自分自身がガラリと変わる瞬間を感じたことがある人はきっと多いと思う。
勇気だったり緊張だったり期待だったり、いずれにしても色々な感情をもたらせてくれる、人生のスパイスとなるだろう。
では、"価値観(内面)が変わる瞬間" はどうだろうか。
内面の変化は目には見えないし、ましてや、自分自身ではなく他人の方がその変化を捉えることは容易かもしれない。
自分で自分の、価値観が変わる瞬間を感じたことがある人は、どれくらいいるだろうか。
気付いたら、変わっていたなぁ…と、
成長過程や時の変化によって実感することは誰にでもあるかもしれない。
10年前の価値観と、現在の価値観
比べてみれば、何かきっかけはあったかもしれない。
けれど、"その変化の瞬間" を体感しながら捉えていたかと問われれば、答えに詰まるのではないだろうか。
と同時に、雷に撃たれるように、一瞬にして価値観が変わる瞬間を感じたことがある人も、実は少なくないと思う。
私もその1人だ。
1回目は小6の時、2回目は高2の時
そして、なぜ私がこんな話をし始めているかというと…
3回目が、つい最近起こったからだ。
1回目の時は、何がきっかけだったのか思い出せないのだけれど、
ある日突然「私は生まれ変わる!」と意気込んで自分にミッションを課し、毎日それを実行していた。
具体的にはどんなミッションだったかというと、
・朝や帰りに、必ずとにかく誰にでも挨拶をする。嫌いな男子にも、知らない学年の子にも。
・クラブや委員会、活動らしい活動(特に自主参加のもの)には、とにかくできる限り参加してみる。興味なくても参加して、頑張って取り組んでみる。
・面倒なこと、苦手なこと、何も考えずにまずはとにかくやってみる。
私にとって当時、日々の学校生活をを楽しくしていなかったこと、それが"嫌な人が学校に居る"ということだった。
いじめられていたわけではないが、とにかく、視界に入れたくない、嫌いだ…
なるべく関わり合いになりたくないから、廊下で見かけたら即避けて、別の階段から移動したり。
だけど、そんな感情を抱いている自分が突然嫌になって、真逆の行動を取るようにすることを思いついてしまったのだ。(今思うとどうしてそんなことを思いついたのか不思議でならない…誰かの受け売りでも、テレビや本に影響されたわけでもなんでもなかったから)
嫌いな人にも毎日毎日笑顔で挨拶した。
するとなぜか、嫌だったはずのことが嫌じゃなくなっていたのだ。
そして、褒められたくてやっていたわけでもないのに、気がついたらものすごく先生に評価されていた。
この経験は、後々の人生においての下地にもなる。
とにかくまずは、トライ。やってみるの精神。
そんな過去の自分に、現在の自分は何度助けられたかわからない。
そして2回目の時、それは1回目とは違って「変わるぞ!」と自ら意気込んで手に入れたわけではない。
小6の時にあんなに変化した私は、時の経過とともに再び "嫌なこと" に囲まれてネガティブな感情に飲まれるようになっていた。
思春期特有のものもあったと思う。
高校生になる頃には、孤独感に溢れていた。
友達はたくさんいた。恵まれたことに、通った高校では一生ものとなる出会いがたくさんあり、部活にだって打ち込んでいた。
なのに私は内心、いつも自分と他人を比べては嘆き、友人達に対しても強い嫉妬心や劣等感を抱いていたのだ。
私のことを理解できる人など、受け入れてくれる人など、この世にはいない、そんな風に悲観的な思考がいつも心の根底を支配していたのだ。
ここまで聞くと、かなり重症なように感じるだろう。確かにそうだったと私は思い返す。
だけど、忘れもしない高2のある日に、私はある出来事によって目覚める。
大袈裟な表現なようだけど、それこそ雷に撃たれたように目覚める。
「私は孤独じゃなかった。私の方が勝手に世界を拒絶してしまっていたんだ。世界はこんなにも私を受け入れてくれていたのに…」
この時の話を、親しい間柄の人に話すことも度々あるが、私はいつも "それまでモノクロだった世界がいきなりカラーになった" 体験と語っている。
翌日から、それこそ私は意気込むこともなく努力することもなく、誰にでも話しかけて何にでも挑戦する自分に変わっている(戻っている)ことに気付く。
これこそが私の、本当の姿なんだ!
以降、オープンマインドでまずはなんでもやってみる、という基本的な性格が完成し、現在に至る。
折々ネガティブに苛まれることはあるが、それまでの経験が助けてくれ、意識や努力の範疇で立ち直ることが出来てきたのだ。
さあ、では3回目。私の価値観に一体どんな変化が起こったというのだろうか。
1回目や2回目の時と、少し種類が違う。
それは "美" に対する認識の変化だ。
私が10代の頃から、20代、そして30代になっても囚われてきた感覚。
というか、女性の殆どが囚われているであろう感覚、それは "美しい容姿になりたい" ということ。
「美しさ」とは、それこそ当たり前のように、整った顔立ちやスタイル、綺麗な髪や肌という、容姿のことを指すものだと信じて疑わない。
そして自分の生まれ持ったものに対するコンプレックスは常にまとわりつき、ひとつ何か解消するとまたひとつ湧き出す。
30歳を超えれば、今度は "老い" が自身を美しさから遠ざけていく。
追っても追っても、手に入らない。
何かひとつに執着してみて、それが解消する頃には、私はまたひとつ老いている。
ある種これはもう一生付き合っていかねばならない、たとえ手に入らなくとも努力することに意義があるのだ、と言い聞かせていた節さえある。
"見た目" を、美しくなるよう努力することは、当たり前の意義だと信じていた。
そんな私が "内面の美しさこそ真の美だ" と、急に気付いてしまうのである。
というか、"内面の美しさ" からしか放てない美しさがあるということに、気付いたのである。
何かに気付く時には、理由がある。
共通する理由のひとつに、 "それに気付ける自分に変化(進化)した" ということがあると思う。
事象が目の前に現れるから、気付くのではない。
目の前にとっくに存在していても、自分が目を持たなければ気付けない。
そうなのだ、とうに昔から、持つ人はこの価値観を持ち合わせていた。
今まで私はそのような価値観がこの世にあることは知っていたが、それにピンとしたものを感じていなかった。
そりゃあ、内面はとても大事だ。わかっている。
しかしその、内面が直接 "美" に繋がると、理屈では理解できても感覚的には理解できなかった。
つまり、私はまだ "内面の美しさこそ真の美だ" と気付ける目を持てていなかったということだ。
不思議なもので、私が容姿を磨けば、容姿の良し悪しに重きを置く人から評価されるし、そういう価値観の世界が視野に入ってくる。
人は自分の身を置いている世界が、世界のすべてだと信じてしまいがちだ。
容姿以上に、内面で美しさを評価できる価値観の世界、そこにとっくに身を置いている人々、そんな、同じ地球上なのにパラレルワールドのような場所で当たり前に過ごしている人々は…ずっとそこに居た。
私には見えていなかっただけ。
そんなことを、突然感覚的に理解してしまい、あぁ見える自分に今、段階が変わったのだということも同時に理解したのである。
"そっち側の世界" の人々に、私は相手にされるのだろうか。
魅力的に映るのだろうか。
何を努力したらいいのだろうか。
3回目はこうして訪れた。
突然、別次元の存在を認識出来るようになった。
雷というほど激しいものではなく、
そう、たとえば…生まれて初めて3Dアートを見た時のような…
そこに絵があることは知っているけど、うまく見えない、捉えられない、という状態が長く続いたあとの
「あ!見えた!」というあの新しい感覚。
自分の価値観が変わる瞬間を、まだ得ることが出来るなんて。
感動とともに、腹を括らねば、という気持ちが湧き起こる。
"見えるようになった" からといって、自分が長年抱いてきたしがらみやコンプレックスまで突然解消出来るようになるわけではない。
ただ、確実に新たなレベルの世界に、自分は身を置くようになったという自覚がある。
"そっち側の世界"
は
"こっち側の世界"
になった。
これを読んでいる貴方は、どっち側にいるだろうか。
実は目の前に、見えていないだけの壮大な世界があるかもしれない。