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「日本語教育の参照枠」一次報告を読んで考えたこと

現在、文化庁から、「『日本語教育の参照枠 』一次報告(案)」に関するパブコメが募集されています。

締め切りは、8月3日(月)です。いつものことながら、締め切りギリギリになっていますが、今回は意見提出前にnoteにまとめてみたいと思います。

今回の対象資料である「 日本語教育の参照枠 」一次報告(案)」(2020年6月25日発行)は、資料を含め、全85ページの大作です。全てに意見を書くのは、非常に難しい。そこで、下記の点に焦点を絞って私の考えをまとめてみたいと思います。

1.  なぜ「日本語教育の参照枠」が必要なのか
2.  学習環境をどのように整えるのか
3.「発表」という表現について

ポイントを3つ挙げましたが、2、3 については、「ちょっと言いたい」という程度のものなので、読みとばしても構いません(笑)。とにかく、1. に集中して書きたいと思います。

1. なぜ、「日本語教育の参照枠」が必要なのか?

これ、この報告書の根本に関わる部分になってしまうんですが、大切なところなので、なぜ「日本語教育の参照枠」が必要なのかという点について考えてみたいと思います。

私たちが何か大きな問題に取りかかろうとするとき、そこには、「社会課題」ともいうべき大きな課題が存在します。そして、その「課題」を解決するために、あれこれ考え、解決策を見出していきます。その際、重要なのが、なぜこの問題に取り組む必要があるのかという「問い」だと思います。

なぜ、このようなことを書くかというと、私は、今回の報告書を読んだとき、「そもそも日本語教育の参照枠が必要なのか」という疑問を持ったからです。この点について順を追って説明します。

1-1 「課題」は何か?

報告書のp.1〜2には、「1. 現状と課題」として、

 (1) 日本語教育の標準や参照枠に関する現状
 (2) 日本語教育の標準や参照枠に関する課題

という項目が立てられ、いくつか現状と課題が挙げられています。

この部分を読むと、現存する「日本語能力の判定試験」には、標準的な統一された判定基準やレベルや指標がない、または不十分ということが挙げられています。

・入国要件等に必要とする国としての統一的な指標は策定されていない
・外国人を雇用する経済界、産業界が採用条件として参考にできる指標が整備されていない
・外国人を雇用する企業等が日本語能力の判定に必要な試験を選びにくい
・多様な言語活動を行う人の日本語能力について、適切な判定がなされていない

と要点を抜き出すと、「現状では業界を横断して使用できる統一した判定基準がないため、適切な判定ができないことが課題である」と読み取れます。そして、ここに挙げられている「判定者」は、主に国や企業など、日本語教育専門外の第三者を想定していることがわかります。

ここに挙げられた「課題」を解決するためには、「統一した判定基準をつくる」というのが解決策になるのではないかと思います。

そこで、提示されたのが「日本語教育の参照枠」です。では、「日本語教育の参照枠」とは何か。次に、その点をみていきます。

1-2 「日本語教育の参照枠」が目指すもの

「現状と課題」の次の項目が、この「日本語教育の参照枠が目指すもの」です。ここには、どんなことが書かれているのでしょうか。

ここでは、言語教育観の柱として、次の3点が挙げられています。重要な部分なので、そのまま引用します。

1. 日本語学習者を社会的存在と捉える
学習者は,単に「言語を学ぶ者」ではなく,「新たに学んだ言語を用いて社会に参加し,より良い人生を歩もうとする社会的存在」である。言語の習得は, それ自体が目的ではなく,より深く社会に参加し,より多くの場面で自分らし さを発揮できるようになるための手段である。
2. 言語を使って「できること」に注目する
社会の中で日本語学習者が自身の言語能力をより生かしていくために,言語知識を持っていることよりも,その知識を使って何ができるかに注目する。
3. 多様な日本語使用を尊重する
各人にとって必要な言語活動が何か,その活動をどの程度遂行できることが必要か等,目標設定を個別に行うことを重視する。母語話者が使用する日本語の在り方を必ずしも学ぶべき規範,最終的なゴールとはしない。

この理念については、私も納得できますし、大いに賛同します。しかし、先ほど確認した「課題」と見比べると、違和感を感じます。

先ほどの課題では「統一した標準的な基準」がないことが挙げられていました。しかし、特に3では、「目標設定を個別に行う」とか「母語話者が使用する日本語の在り方を必ずしも学ぶべき規範,最終的なゴールとはしない」とあり、「標準的な基準がない」という課題の解決にはなっていません。

また、国や企業など、専門外の第三者による判定のための指標がないという課題が挙げられていたにも関わらず、「自分らしさを発揮できるようになる」「日本語学習者が自身の言語能力を生かす」「目標設定を個別に行う」など、この言語教育観には「学習者個人」が中心に据えられています。

課題として提示されたものの解決策としては、だいぶ「ずれ」があるように思うのです。

1-3 なぜ「CEFR」なのか

こう見てくると、課題とされる「統一した判定基準の作成」と、その元になっている「CEFR」の枠組みとはどのような関係があるのか、なぜCEFRの枠組みを参考にするのかという疑問が湧いてきます。そこで、その部分について、報告書を詳しく見ていきます。

この点については、以下の部分に書かれていました。

3.「日本語教育の参照枠」の枠組みとしてヨーロッパ言語共通参照枠(CEFR)を参考とすることについて(p.5)

要約すると(と言いつつ、ほぼそのまま)、以下のようになります。

・CEFRは欧州評議会によって、20年以上にわたる研究と検証の末に開発されたものであり、国境や言語の枠を越えて広く教育や就労の流動性を促進することにも役立っている
・外国語の運用能力を同一の基準で測ることのできる国際的な枠組みである
・学習者、教授者、評価者が、外国語の熟達度を同一の基準で判断しながら、学び、教え、評価できるように開発された
・CEFRのレベルは、A1,A2,B1,B2,C1,C2に分かれている
・言語を使って具体的に何ができるかを表す「能力記述文」がわかりやすい
・すでに様々な分野で指標として使用されている

私が引っかかるのは、最後の「すでに様々な分野で指標として使用されている」というものです。そのあとの具体例を見ると、「すでに使われている」のは、「指標」の部分であり、CEFRの理念については言及がありません。

その中でも、特に引っかかるのは、以下の使用事例です。

・在留資格「特定技能」取得に際しては,CEFRのA2相当の日本語能力が要件とされている。 また,令和元年8月には,法務省告示をもって定める日本語教育機関に対する抹消基準として, 課程修了者の7割以上が3年連続でCEFRのA2相当以上の日本語能力を習得できない場合が適用されている。

「国として統一した基準がない」のが課題であったはずなのに、法務省がすでに要件としているからCEFRを参考にするというのは、課題と矛盾があるように思います。

また、日本語教育機関の抹消基準としてCEFRが採用され、具体的に「課程修了者の7割以上が3年連続でCEFRのA2相当以上の日本語能力を習得できない場合」は、告示が取り消されるともされています。これは、「多様な日本語使用を尊重する」とする「日本語教育の参照枠」の理念と異なります。

このような理念と反する使用事例をCEFRを参考にする理由として挙げてしまっては、理念と違う使い方を認めてしまうことになります。

このように見てくると、なぜ「CEFR」なのか、そもそも「CEFR」ってなんだっけ?とよくわからなくなってきます。場合によっては、CEFRとは「国際的な同一基準の枠組みである」との印象を与え、CEFRの持つ理念を誤認させてしまう可能性もあります。

1-4 「問い」の立て方は適切なのか

このように見てくると、なぜ「CEFR」ではなく、「日本語教育の参照枠」を新たに策定する必要があるのかという疑問が湧いてきます。そこで、改めて、第2部の「日本語教育の参照枠」とは何かを見ると、以下のように説明されています。

「日本語教育の参照枠」とは,日本語の習得段階に応じて,求められる日本語教育の内容及び方法を明らかにし,外国人が適切な日本語教育を継続的に受けられるようにするための,日本語教育に関わる全ての人が参照できる,日本語学習,教授, 評価のための枠組みである。 (p.7)

これ以降の具体的な説明は、

・学習者は、目標設定が容易になり、自律的に学習が進められるようになる
・教育機関は、学習目標や教室活動の設計、評価が可能になる
・学習者個人の必要に応じた日本語の習得が可能になる
・日本語教育の質の向上につながる

など、学習者が適切な日本語教育を継続的に受けられるようにするためのものであり、「日本語教育の参照枠」を推進することによって、日本語教育の質の向上につながるのだということが説明されています。(本当にざっくりした要約の仕方ですみません!詳しくは、資料をお読みください)

第2部の「「日本語教育の参照枠」について」には、具体的な尺度や能力記述文について詳細が説明されています。全部で50ページくらいあるので、なかなか読み込むのは大変です。私もまだ十分に読み込めていないのですが、日本語教育関係者以外の人が、この部分を読んで、「レベル」や「尺度」を理解するのは、かなり大変な作業だと思いました。

つまり、第2部は、主に日本語教育関係者向けに書かれたものであって、日本語教育に関わる者が、どのように参照枠を理解し、どのように尺度や能力記述文を使用し、どのように日本語教育の質を向上させるのかが主題であって、はじめに提示された「国や企業のような専門外の人が業界を横断してどのように学習者の日本語力を判定するのか」という課題に対する解決策は、書かれていないように思います。

では、何のために「日本語教育の参照枠」が策定されるのか、「日本語教育の参照枠」は何を目指しているのかがどうしても気になってきます。

この部分を改めて確認すると、「はじめに」の部分に、

今後,本報告(案)が日本語教育の共通の指標として参照され,多様な日本語教育の現場で用いられ,国内外の日本語教育関係者や日本語学習者がお互いの教育実践をめぐる知見を共有し連携することにより,日本語教育の質の更なる向上が図られ,もって共生社会 の実現に寄与することを望みます。

と書かれています。また、12ページの表には、「国内外の日本語教育の質の向上を通して、共生社会の実現に寄与する」とも書かれています。

とすると、この報告書は、「日本語教育関係者」向けに書かれたものであり、そもそも外向きに開かれたものではないと改めて感じます。ということは、そもそもの「問い」の立て方が間違っている(もしくは「問い」がない)のではないかと思うのです。

▶︎課題:統一された判定の指標がない
▶︎解決策:全ての人が参照できる判定基準を作ろう

ではなく、

▶︎問い:共生社会を実現するために日本語教育として何ができるだろうか
▶︎課題:統一された基準で個々の日本語能力を画一的に判定しようとしている
▶︎解決策:画一的な基準で日本語能力を判定するのではなく、個々の学習者が社会参画できるような言語使用の枠組みを考えよう

となるべきではないかと思ったのです。

これ、結果的に大きな違いがないのでは?と思うかもしれませんが、「統一した判定の指標がないという課題を解決するために「日本語教育の参照枠」を作りました」となってしまうと、それを見た専門外の人は、「日本語教育の参照枠」を統一された評価基準と捉えてしまうのではないかと思うのです。そして、理念の部分は置き去りにされたまま、A1やB1、C1といった基準だけが一人歩きすることになりかねません。

学習者個人個人、必要となる日本語能力は違うのに、なぜ統一した判定基準が必要なのか?

と日本語教育業界として、社会全体に問いかけることができれば、もっと社会全体の考え方が変わってくるのではないかと、私は期待しています。

2. 学習環境をどのように整えるのか

案の定、ここまでで、かなりボリューミーになってしまったので、この後のポイントは、簡単にさらっとまとめます。

報告書の中では、

複数の教育機関や企業等が共通の指標や能力記述文を参照することにより, 学習者は,転居や転職によって日本語を学ぶ場が変わったとしても,継続的な日本語学習が可能となる。 (p.11)

とありますが、そもそも、「転居や転職によって日本語を学ぶ場が変わる」という状況がどれほどあるのでしょうか。海外から日本へ(またはその逆)というケースは除き、日本国内においては、各地域にあるそれぞれの日本語教育の現場が対応しているのではないかと思います。

しかし、実際の地域日本語教育を中心となって支えているのは、日本語教室のボランティアです。もし「継続的な日本語学習」を実現しようとするのであれば、地域のボランティアに任せるのではなく、まず、「継続的な日本語教育」ができる環境づくりの方が先ではないかと思いました。

3. 「発表」という表現について

「日本語教育の参照枠」では、言語活動を「聞く」「読む」「話す(やり取り)」「話す(発表)」「書く」 の5つに分けて、熟達度を示していくとしています。

私が引っかかるのは、「話す(発表)」の「発表」という表現です。「やりとり」に対して、一方的なモノローグの発話という意味で「話す(やり取り)」と区別したのではないかと想像しましたが、この「発表」という表現が、日本語教育らしいなーと思いました。というのは、私は「発表」を教室用語として認識していたからです。(ロールプレイの練習などの後に「では、発表してください」という使い方をします)

報告書の中では、「発表」に注釈があり、

なお,この場合の「発表」とは,まとまった長さの発言(出来事・経験についての説明,聴衆を前にした演説, 公共の場でのアナウンスなど)のことである。 (p.4)

と説明されています。「出来事・経験についての説明」はともかく、演説やアナウンスなどはむしろ、「聞く」場面の方が多いのではないかと思いました。

一般社会で「発表」っていうと、「結果発表」「重大発表」「報道発表資料」「政府・気象庁からの発表」など、アナウンス的な使われ方が多いように思います。

そこで、私は、プロジェクト型授業の時には、あえて「発表」という言葉を避け、「報告、説明、プレゼン、ピッチ、LT(Lightning Talk)」のような言葉を使用していました。

「日本語教育の参照枠」をもっと外に開き、一般にも浸透させるのであれば、一般社会に通じる表現にしてほしいなーと思いましたが、私の感覚の方がずれてるのかな?とちょっと不安になりました(笑)


以上、今回も長くなりましたが、「「 日本語教育の参照枠 」一次報告(案)」について、考えたことをまとめました。これから、パブコメ提出用の文章をまとめます。(あー)

日本語教育関係者のみなさん! ぜひパブコメを出しましょう。

最後までお読みいただきありがとうございました!

共感していただけてうれしいです。未来の言語教育のために、何ができるかを考え、行動していきたいと思います。ありがとうございます!