学びの主体性 ー「学習者を社会的存在として捉える」とは?
今日は、「学びの主体性」について考えてみたいと思います。Facebookって、たまに、過去のびっくりするような投稿を引きずり出してくることありませんか?先日もFacebookが、6年前の投稿を掘り出してくれましたので、今回はその投稿をもとに考えたいと思います。
今回扱うネタは、2018年1月20日に投稿されたものです。
当時私は、「山の日本語学校(仮名)」という日本語学校を運営していました。この学校の様子は、以下のマガジンにも連載しています。
投稿の背景
「山の日本語学校」は、PBL(Project-Based Learning)という方法を採用し、IT企業への就職を目指すITエンジニアを対象とした日本語教育を行っていました。特定のテキストは使わず、自分たちでプロダクトのアイデアをまとめたり、実際に開発したりというプロジェクトを行いながら、日本語を学んでいました。
初の試みだったので、いろいろと試行錯誤しながらの運営でした。学校は、2017年10月から始まりましたから、今回の投稿は、2期目が始まったときのものです。以下、引用です。
今から考えれば、ほとんど日本語が話せない状態から、たった3ヶ月で行ったプレゼンですから、完璧なプレゼンを求めること自体無理があると思いますが、ビジネスピッチを見慣れている経営陣からは、本気度の足りない「やらされている感」満載のプレゼンに感じたようです。
何よりも、「これ、日本語教師にできるの?」という指摘が強烈で、当時は、年末年始が全く休まらないほど悩み、打開策を考えていました。
この辺の葛藤については、以下の記事に書いています。
facebook投稿の続きです。当時の私が出した結論です。
日本語学校ですから、目的は日本語を勉強することです。学生がこのように考えることは、全く不思議ではありません。実際、当時は、プロジェクトではなくて、文法や語彙の勉強をしたいとか、宿題を出して欲しいとか、そういうリクエストも学生から出ました。
それを頑なに拒否し、プロジェクトを続行しました。プロジェクトのゴールは明確に示していましたが、私も学生も手探り状態だったと思います。もちろん手応えは感じていたのですが、同時に何かモヤモヤが残る1期目でした。
そんなこんなで2期目が始まります。
2期目のスタート
2期目のプロジェクトが始まる前に、とある大学の学生と交流する機会がありました。この交流会が2期目のプロジェクトの流れを大きく変えるような意義深い交流会になったのです。
詳しくは、以下の記事にも書いています。
このときに感じたことが、facebookの投稿にも書かれていました。
学生から突きつけられた「この交流会の目的は何ですか」という問いかけは、強烈でした。以下、私の考えです。
この話し合いのプロセスを経て、プロジェクトの方向は大きく変わりました。「活動の主体は誰か」を学生たちが意識し始めるようになったのです。
facebookの投稿は、以下の言葉で締められています。
これは、確かに面倒くさい(笑)
「活動の主体は誰か」という問い
facebookに引っ張り出された投稿を読み、私はちょっとした衝撃を受けました。
現在、技能実習生やこれから日本での就労を考えている外国人の日本語教育を行っていますが、「どうすれば、もっと彼/彼女らの主体性を引き出せるんだろう」ということを日々考えています。受講生はとても素直なので、私からの提案を素直に受け入れます。しかし、「やらされてる感」を拭うことはできません。「この活動の目的は何ですか」なんて聞かれることもありません。
これは知っておいた方がいいとか、こういうことをやったら、興味を持って取り組むのではないかと私が思ったことを学習に取り入れて、進めています。
いわば、餌をつけた釣り糸を、池に投げ込んでいる状態です。しかし、学びに対する意識を変えるような大物は、なかなか釣り上げることができません。
最近の自分の実践を振り返り、「活動の主体は誰か」ということに学生自身が気づき、教師に対して投げかけてくるような、こんな凄みのある活動をここ数年していないなあ…ということに気づき、このfacebookの投稿に衝撃を受けたのです。
「社会的存在として捉える」とは?
「日本語教育の適正かつ確実な実施を図るための日本語教育機関の認定等に関する法律」(以下「日本語教育機関認定法」)が、2024年4月1日から施行されますが、この法律によって、これまで留学生を受けいれてきた日本語教育機関は、「日本語教育の参照枠」に基づいた教育課程を編成することが求められます。
「日本語教育の参照枠」では、以下の三つの柱が提言されています。
学習者を社会的存在として捉える。
言語を使って「できること」に注目する。
多様な日本語使用を尊重する。
このうちの2については、500近くの能力記述文(Can do)が資料に示されており、「できること」を中心に教育課程を編成することが、検討されているのではないかと思います。
では、1の「学習者を社会的存在として捉える」については、どうでしょうか。「日本語教育の参照枠」では、以下のように説明しています。
facebookに投稿された活動を元に考えると、このときの学生たちは、同世代の大学生との交流をとても楽しみにしていました。しかし、教師が与えたテーマに沿って、交流会の内容を考えたとき、自分たちの望む方向とは、違う形に進んでいきました。せっかくの交流のチャンスをみすみす逃してしまったのです。
このとき、初めて「交流会の目的は、先生が決めるんじゃなくて学生が決めるべきではないか」と言い始め、「自分たちは、activeではなかった」という気づきが生まれました。
授業の一環として行った交流会ですが、このとき学生たちは、活動の主体は自分たちであるべきだと自覚したのではないかと思います。つまり、一人の留学生として、「社会的存在」として、大学生との関係を築こうと考えたのだと思います。同時に、私は、学生からの問いかけによって、学生たちを「社会的存在」として認めることができたのではないかと思います。
この一連のやり取りでは、「言語を使って何ができたのか」については全く触れていません。でも、それ以上に、とても大切な気づきを得たように思いました。
「日本語教育機関認定法」の施行に伴い、今後、日本語教育機関において新たな教育課程の編成が行われます。このとき、単に「できること」を増やすだけでは、「日本語教育の参照枠」に沿った教育課程を編成したとは言えません。教師が学習者を「社会的存在」として捉え、学習者が自らを「社会的存在」として自覚できるような活動をプログラムに組み込むことができるのか。過去の自分から、大きな問いを投げかけられたように思いました。
(「山の日本語学校物語」途中でストップしていましたが、再開しなければという気持ちになりました)
今回も、最後までお読みいただきありがとうございました。