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思考は反芻する
人の考えは、何度も反復する。同じことを考える。タイトルにした反芻とは、Wikipediaによれば次の通りだが、思考は湧き上がってきてはまた消え、意識はしないが自分の中で熟成した後にまた湧き上がる。
反芻(はんすう、rumination)は、ある種の哺乳類が行う食物の摂取方法。まず食物(通常は植物)を口で咀嚼し、反芻胃に送って部分的に消化した後、再び口に戻して咀嚼する、という過程を繰り返すことで食物を消化する。
囚われがない状態では、反芻した思考は新しいアイディアを連れてくる。これまで悩んだり考えたり、一生懸命調べたりしていたことを、何か他の要素と組み合わせてイメージ、アイディアとして頭の中に浮かぶ。
しかし、囚われがある状態、つまり心に不安を感じている場合は、思考はより制限し、束縛し、思考や行動を制限することとなる。
例えば、理想に向かって努力できるような人は、過度に不安を感じると完璧主義になる。〜ねばならない、〜べきだと考えて、融通がきかなくなる。周囲に何かと強要するので、周囲の人たちをうんざりさせる。そして、本人はうまくいかないので、ますます〜ねばならない、〜べきと執着する。ますます一人よがりになっていく。
囚われができると、何かしていないと落ち着かなくなる。またはやる気がなくなる。無気力になる。回避的になる。湧き上がってくる嫌な感情、思いに蓋をするように、ますます強要する。行動する。不機嫌になる。周囲もその弱みに付け込んできたりするので、逃げ場がなくなる。
この反芻する思考を手放すためには、安心することである。自分は大丈夫だと思うことである。すると、これまで身を守ろうと何かにしがみついていたところから、気持ちが楽になる。
なお、囚われがなくても、思考は反芻する。これまでのことを思い出したり、将来のことに関するイメージを持ったりする。囚われがある人と大きく違うのは、何かに執着したアイディアではないということだ。
例えば、英語を学んでみたいと思ったとする。囚われがない人は、ただ純粋に興味を持っている。やってみたいと思っている。それは英語をペラペラ話すことでもないし、文法を学ぶなどではなく、その物事に興味がある。子供のようである。囚われがある人は、英語を学ぶことで〜できて、〜と評価されて、きっと自分は〜になるからやりたいと思う。自分が安心するイメージが湧いてくる。それはお金を充分に稼ぐことかもしれないし、時間がたくさん持てるようになることかもしれない。人から認められるようになったり、自分が周囲とかかわって活躍しているイメージかもしれない。しかし、そのイメージは自分の不安からきている。囚われのない人は、そのイメージの効果まで気にしない。英語を学ぶとどうなるかなど考えない。同じ英語を学ぶという行動であったとしても、その内面は大きく違う。
囚われがあると、どこかで窮屈になる。これでよかったのだろうかと悩む事になる。どんなに自分のこれまで培ってきた能力で、社会的地位もあり、お金も稼ぎ、好きなことができ、周囲に認められていたとしても、悩む。乾く。それは、自分ではなく、周囲にこたえてきたためである。これまでの環境でそれが最も自分の身を守れる最善な手段であったためである。
私はリケジョの2回転職してきたサラリーマンだが、どんなに周囲が羨むような環境であったとしても、どこに悩みなんてあるんだと思う環境であったとしても、どこか病的になり、こじらせる人を見てきた。一方で、同じような環境にいながらもワクワクして子供のようで、自由に発想する人がいた。この人たちはそもそもの出発地点が違う。前者は囚われがある人で、後者は囚われがない人だ。
囚われがない人も元々は仮面をつけていた。囚われがあった。周囲の環境に対応してきた。しかし、囚われがあることに気付き、仮面を外したのだ。
仮面を外すことは、誰でもできる。充分に休息することだ。頭を空っぽにすることだ。周囲の囚われのある人と距離を取ることだ。ひとりになることだ。何もしないことだ。初めのうちは、孤独にはなるし、何もしてなくてソワソワするし、時間の無駄だと思うかもしれない。しかし、いつまでもあれこれ根拠立てて大丈夫と思っても、楽観的に大丈夫と思っても、不安は湧いてくる。不安が湧いてこないようにするためには、頭を空っぽにして無条件でここにいていいんだという感覚を得ることだ。それは自分の気持ちを書き出すことでもない。人に話すことでもない。自分の人生を振り返り、あの時があったから今があると思うことでもない。ただ頭を空っぽにして、リラックスしている状態とそれを俯瞰しているような感覚が混ざりあって、思考が湧いてこない状態である。こうなると、何か根拠だてる必要はない。なぜなら大丈夫だから。無条件の安心感がそこにはある。瞑想やマインドフルネスはその手段の一つである。