創造する上で行き詰まったら
なにかを作っていて行き詰まったときは、壊してみるのがいいのだと私は思っている。
余白は自由な発想を生む。これまで積み上げてきたものを一度壊すことで、新たな可能性が生まれる。ここで、一部分だけ壊すのも手だが、何か行き詰まったと思ったら、白紙に戻すのがいいのだと思う。こんなに緻密にやってきて、ここまで積み上げたのに壊すなんてと思うかもしれない。しかし、後から考えてみれば白紙に戻すことが1番時間がかからない。
理系の一見ロジカルな世界でもこの法則は成り立つ。私は30代のリケジョであるが、様々な現場で白紙に戻した方が早かったなと思うことがあった。
例えば、新たな開発を始める時、要件を決める。〇〇であること。〇〇ができること。そのものを形作る条件を定義していく。その後、仕様を決める。多くのもので成り立つ場合は、特徴ごとに分類し、そのインターフェイスを決める。(物事の境界)次に、分類した要素の中身を定めた条件を満たすように設計していく。つまり、インターフェースの辻褄が合うように細かいところを作り込んでいく。こうして、積み上げて作り込んでも、行き詰まったら白紙に戻す方が早い。それは、最初に定めた要件の置き方が悪かったのだ。何を特徴としたいのか、強みとしたいのか決める必要がある。
これは絵画の世界でも同じことが言える。描く対象に対して、表現したいことを決める。絵の場合感覚的で、理系の理詰めとは一見違うが、突き詰めれば同じである。自分が何に1番感動してるのか、何を表現したいのかを掴み、それを浮き彫りにしていく。
つまり、理系の世界でも絵の世界でも、要件ー何を捉えたいのかによるのであるが、その定義づけが大切だということである。
そして、この要件出しは、理詰めで思考して箇条書きにするのではなく、感覚的、つまり一瞬で要素を決めることができる。
また、一瞬で要素を決めた時、イメージを固めた時、その発想は自由である。例えるならば、久々に物事をやってみる時に近い。高校の頃に吹奏楽でホルンをやっていたとする。その後、10年くらいはホルンに触れずに生活したとする。そして、10年後の30歳の頃に再びホルンを吹こうとする。10年ぶりに吹くので、もちろん当時のように上手にできない。ここで上手にやろうとするのではない、そのことを楽しむのである。ただ新鮮な音色に心を躍らせ、思うがままに吹いてみる。何か楽譜にそう必要もない。なんとなく感覚に任せて吹くのである。そこにエゴはない。うまくやろうとしない。まるで身体が操られているかのようである。
創造する上で息詰まったら、白紙に戻すことである。そして、ゆっくり休むことである。すると何かやりたいなと意欲が湧いてくる。意欲が湧いた時、これまで考えていた、壁にぶち当たっていたことの解が、自分の中から勝手に湧いてくる。
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