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10月の徒然草

 徒然草という言葉が好きです。ただ流れていく続く感じ、緩やかな感じ、少し乾燥した寂しさというような哀愁が漂っている感じも好きです。「ものぐさ」という言葉がありますが、同じような「くさ」、「ぐさ」という言葉と関連して、ひとりでいる雰囲気があるところもお気に入りです。なんとなく今の自分にぴったりだと思うので、「10月の徒然草」という名で思ったことを連ねていこうと思います。まとめられなかったモノのまとめです。

好きこそものの上手なれ

 このところ兄弟もブログを書くことを始めました。それから転じてゲーム配信をしようと準備しています。その姿を見て好きこそものの上手なれと感じます。本人はどこまでやろうとか考えてないのです。ただインスピレーションが湧くごとに体現していっているのです。元々は不安を抱えている兄弟です。何かと自分は不幸だと主張したり、どんなに恵まれなかったかを語ります。いつもこんなことばかり言っているわけではありません。普段は常識をいかにわきまえているかをアピールしてきます。「こういう時はこうするのが普通だよね」という形にです。物分かりが良くて分別のある行動をする常識的な人という形ですが、本人はなんだか不満そうです。その不満が誇張する表現となって日常会話では出ていました。

 しかし、今は違います。ブログをこんなかんじで書いてみてるんだとやっていることを細かく報告します。私は詳しいことはよく分からないですが、本人がこだわりを持って進めているのは確かです。楽しそうでイキイキしています。今はまだ知らない世界に行ってみようと試行錯誤する姿は安心している人です。明日がどうなるななど気にすることなく、気ままにやりたいことをやっています

 兄弟ということで私はすぐ比較してしまいます。私もフォロワをつけるためにあれこれやった方がいいのかな?自分はこのままでいいのかな?しかし今はそんな自分を認識するにつとめようと思います。同じようなことをして結果を出している兄弟を横目に焦っているというところでしょうか。

 私の状態としては再び狙う人となって執着のある状態になることを避けようとしているというところです。取り急ぎ目標を立てたり狙うことはできるのですが、おそらくそこには無理が生じます。今ですら自然とできないことを、無理して小分けした目標を立てたとしても、できることが増えるだけです。それよりも私は何に自然と夢中になれるのかということを待っていようと思います。私の中で執着や囚われが薄れるように働きかけているのです。

 狙ってみるのもひとつの手段ですが、今はこのままでもいいかなと思えています。これまで見てきた安心している人がエゴなく物事に取り組んでいたためです。私も安心している人のようにエゴをなく動けるように、狙わないように生きてみているのです

批判的な私?

親しい人から「言い方が強くなった」と言われました。今の私はこれが気になってこうして文章にするに至っています。些細なことを気にするようになったなと思います。サレリーマンで忙しかった時は気にもとめないようなことです。

 話の流れとしては、親しい人が電話をかけてきて「子供に甘いものを寝る前に食べさせないと癇癪を起こすようになったの」という話をしてきました。私に電話をしてきたのも、電話で他の人の声があると子供の気が紛れてギャン泣きがなくなるからのようです。最近は子供が泣いて手がつけられなくなると、私がフリーなのをいいことに、親しい人は急に電話をしてくるようになりました。

 親しい人から子供に与えないと泣くのよという話を聞いて、私は「糖は取りすぎると若くても糖尿病になるから、気をつけてもいいかもしれないね」という話をしました。すると相手から言い方が強いと言われました。おそらく「大変だったね」などのねぎらいの言葉をかけるのが気持ち的には晴れたのかもしれません。

 文句を言った後も親しい人の話は続きます。「最近どう?」と話題を変えてきました。私は「今後はどうなるかわからないけど、再度働くかもしれないかな」という話をしました。再びサラリーマンになることは、今の私がイメージがあまりできません。しかし生活費のためにいずれはそんな日が来るかもしれないなくらいには捉えています。すると親しい人は「よかったじゃん。このままプー太郎になるんじゃないかと思ってた。」と言いました。私は今のあり方を批判するようにも聞こえるその返答に、少し嫌な気持ちになりましたが、言わんとすることもわかるので、「そうだね」と返答していました。

 続けて親しい人は話します。「私なんて本当に働いててよかったと思うよ。好き勝手できるし、私ほんと仕事できるからね。」私はこの言葉を受けて、なんとなくマウントを取られたと感じました。実際は相手は自慢したかったのだと思います。できることを認めてほしいのだと思います。対して私は「スムーズにこなせるって仕事になれたんだね、言い方を変えれば楽な仕事になったんだね、これは批判しているとかではなくて、能力が上がったんだね」と言いました。若干、親しい人に少しつっかかった形です。楽な仕事になったという言い方をせずとも、相手を気持ちよくさせたいのなら「仕事をスムーズにこなせて、本当にできるんだね」と言うといいのです。「批判しているとかではなく、能力が上がった」などとは言わなくてもいいのです。

 すると親しい人は言いました。「ほんと前の職場みたいなのはもう出会えないと思うから、後悔すると思うよ。」私のことを心配していることもあるのかもしれませんが、ちょっと不安をあおられているなと感じました。そう言うのもわかるなと思いつつ、私は答えました。「大企業に入ったらわかるよ。」親しい人はこじんまりした会社で働いています。全員で30人といったところでしょう。親しい人はそういった会社でしか働いたことがないことを知りながら「大企業に入ったらわかるよ」とこたえたのです。

 すると「前よりも言い方が強くなったね、なんか批判的になった。」と親しい人は言いました。こうして私はこの言葉が気にかかるに至ります。以前は何を言われても、きっと心の底で自分は大丈夫と思っていたのでしょう。相手が仕事をスムーズにできれば良いと素直に捉えるし、相手を素直に褒めます。しかし今は好き勝手に電話をしてくる「使われている」とも捉えられる様に正直嫌気がさしていました。自分は大丈夫ではないという感覚が日常会話で出ているのです。

 書いている人の中で親しい人が周りから「なんか苦手」と言われていることを思い出しました。デリカシーがない感じ、人との距離感がバグってる感じが苦手だと話したのです。他にも周りが親しい人に対して「長い時間話したくない」と言う姿を思い出しました。どうしてと尋ねると「自分の話が長いし、コミュニケーションが成り立たない」と話すのです。こちらの回答に期待があるし、聞いて聞いてと自分のことばかり話す姿に「この話しは自分でなくてもいいな」と感じたらしいのです。

 私は親しい人が本人がいないところで大人になっても悪く言われる姿に少し驚きましたが、そういう人かと捉えているので、私の場合は避けようとか何か行動に移そうとは思いません。ただ、周りの人は親しい人の態度を見て態度を変えていたので、その様子に寂しさを覚えたのでした。安心している人は失礼な人がいたら毅然とした態度で接します。迎合したりはしません。私の場合は親しい相手を考えることで、どことなく依存しているのかもしれません。考えすぎかもしれませんが、雑談なにのなぜか心地よくない形になる様子を見て、私が不安な状態にいることで相手も反応しているのだなと思うに至ったわけです。

機嫌を自分でとる

 体験ではお金を使って自分の中に残りますが、衝動買いしたものは残らないという話です。

 私はこのところリングフィットアドベンチャにハマっているので、来る日も来る日もリングフィットアフォベンチャのことを考えています。むしろ何をしようか悩んだらリングフィットアドベンチャをやっているという感じなのです。こういった自分を省みると人生の方向性が定まっていないのだなと思います。夢中になれるものがないから、マッサージに行ったり、人から言われたことをこなす自分がいるのだなと感じます。

 私は初めマッサージという体験にお金を払っていましたが、今では自分の機嫌を取るためにマッサージに行っています。いつごろからシフトしたのか自覚はありませんが、気持ちが沈んだり、自分の機嫌を取りたい時に利用する自分を見ると、自制心がかけてきているなと感じます。何が問題でこう浪費しがちなのだろうと考えてみようと思います。

たまにはおしゃれをしたい?

 私は基本的にオシャレをしません。ただし先日は1年ぶりくらいにメイクをしました。いつもは着ないおしゃれ着を身にまとって出かけました。

 少し気分が良かったので、次の日も実践しました。おしゃれ着として選んだのは、通気性の良いレースのような素材のニットです。このような1年に1回しか着ない服を私は3着程度私は持っています。その中の1つを着て出かけたのでした。

 以前、この服は断捨離をしようとしました。着ていないから捨てようか悩んだものの、値段が高くこのような素材のものには出会えないというレア感から残そうという判断に至りました。結局おしゃれ着を着ると疲れます。帰ってくる頃には靴の痛さやいつもは通気性が良いのに今日はなんだか汗ばむなど自分に合っていない感じが出ます。

 そうしてまた普段着に戻っていくのですが、特別な服とおしゃれ着のバランスを私はまだ見失ったままでいます。今のところおしゃれ着は小物次第で結婚式に出れるドレスに早変わりします。私にとっては「いつもの」ではないものは「特別な日」にも活用できるくらいがちょうどいいのかもしれません。

 今ではサービスが発展してオシャレ着をレンタルすることもできます。流行りのものが定期的に送られてくるサービスもあります。結婚式という日にちが決まった日の洋服をレンタルすることもできます。着物のレンタルのようなものです。つまり服を全てレンタルでまかなえるのです。私はこのサービスを利用したことはありませんが、正直予約が面倒で始めることすらしませんでした。しかしたまにはおしゃれしたいという衝動に駆られるので、この欲を解消するには今の特別な服を3着程度持っておくことでいいのかなと思います。ないとなんだか不安になります。

 たとえば、またに会うおばあちゃんのところに行くときにオシャレをしたい時もあれば、いつもの洋服で飾らずに行きたい時もあるのです。これをみると私はまだまだ甘えたいのだなと思います。子供のような甘えたい欲求が潜んでいるのだなと感じます。この欲求をどうしようともせず、たまに来る「おしゃれをしたい」という衝動のために特別な服を今日も管理するわけです。少し面倒が増えますが、これもゆとりかなと捉えることにします。

知識不足でストレッチに執着していた

 私はより満たされたいと思ってから、カラダも整えてみようと思うに至りました。そうして開脚前屈をすることを目標にしたわけですが、私はこれまで筋トレをすることが嫌でストレッチにこだわっていました。筋トレをしても「どうせ定着しない」ことがわかっていたからです。毎日30回と回数を決めたりして地味な運動をすることは、いつか飽きる、もうやらなくていいやと思う日が来るとやる前から思えていたのです。そして今以上に筋肉をつけて太ったりしたいわけでもありませんでした。以前は筋トレをすると逆に太るという思い込みがあったのです。しかしリングフィットをするようになって、どんどん体力がついたり体調が良くなったりする中で、筋トレが習慣になってきました。回数を決めずともゲームをやることで筋トレが習慣化できたのです。

 体力がついたとわかるのは、以前はリングフィットをすると疲れて寝ていたのですが、今では寝なくなったからです。これは体力がついたのではなく、カラダが慣れたのかもしれませんが、ゲームで身体を動かすことが習慣化し始めたのは確かです。体調が良いのは毎日お通じが良いためです。以前は2週間に1度くらいしか催さなかったので、体質が変わったなと感じます。

 また、私はマッサージに通っています。マッサージをされると筋肉がゆるみ可動域が広くなったのでカラダに良いものと捉えていました。そうして毎回押されている場所が同じことに気がつき、解剖学の観点で筋肉の動きを調べたりするようにもなりました。カラダについてどんどん興味を持っていったのです。そうして通っているジムでも筋トレをするようになりました。以前は頑なに断っていた筋トレをするのです。どうして断っていたかと言えば「自分は習慣化しない」と思っていたからです。そもそも筋トレではカラダが太くなると思い込んでいました。特に私は太ももが太いのですが、軽く調べた私の知見では、ハムストリングス、つまりは太もも周辺の筋肉が硬いことが原因だとされていました。長年の歩く姿勢か運動不足かはわかりませんが、とにかく太もも周辺の筋肉が硬くなっていたのです。それならばストレッチをしてほぐせばいいというのが当初の私の考えでした。筋肉をつけても太くなるのならば、後悔するからしないほうがいいと捉えていました。

 しかしジムに通う中で主動筋(しゅどうきん)と拮抗筋(きっこうきん)の大切さについて知りました。運縮める、伸ばすの神経伝達で意図した運動ができているのです。当初は開脚前屈をしたいという狙いでなんだかんだストレッチだけしてればいいと思っていたのですが、自分で狙ったポーズをとるためには、筋トレは不可欠かもしれないということを実感するに至ったのです。

 マッサージで可動域が広くなることで「ほぐすことによる筋肉のゆるみ」を体感し、リングフィットで体力がついてくる中で「筋トレをすることによる筋肉のつながり」を実感しました。そうして今は「習慣化できて自分で情報を取って試行錯誤する」ところまできました。そうして続けてきたジムを辞めるに至りました。目的の開脚前屈をするというところには至っていませんが、カラダも整ってきて、自分で知識を得られる状態になってきているため、もうひとりでもいいやと思えるに至ったのです。

 私は不安な人から安心した人になるためには、今以上の何者かにならなくていいと捉えています。この考えは今も昔も変わりません。しかし、何か目的がある時はまず情報収集をするのがいいと実感するに至った経験でした。ストレッチ、筋トレは開脚前屈をするというなんとなくな目的から来ていますが、私の人生は今のところどうなろうと狙いを定めていません。今日も気ままに自分の考えを書いたり、ご飯を食べたり、昼寝したりしています。狙いはないですが、なぜだか生活に変化があるのが不思議です。お金が減っていくと焦ることもありますが、エゴのない意欲のままに生活することを続けようと思います。むしろ続けようとこうして書かないと、危うく目的やゴールを立てそうになるので、こうして書くことで発散しているのです。

 そんなに目的を決めないことに執着しなくてもいいのでは?いっそのこと目的を決めてみればとは思います。ただ今はまだアマノジャクになっています。目的を立てて、狙いを定めて、再び避けがたい困難がたくさんある生活になることを恐れています。この先に何があるかはわからないですが、私の挑戦は続きます。ぼんやりとした時間の中をより満たされると自分が感じる嗅覚を強くしていく生活は続いています。

考えがまとまらない

 最近考えがまとまりません。どんどん発散して何が気になっていたのかわからなくなってしまいます。親しい人に言われたこと、靴下、住む場所、食べ物など気になること、都度考えていることはあります。ただなんとなく手につかないので、食欲に走っているところがあるので、ストレスが溜まっているのだと思います。昼寝をしたのにいつもより早く寝られるのもその証拠です。なんだか体調が優れません。

 私はどうなったら嫌なのでしょうか。パートナーがいなくなること、くらいしか執着がありません。もちろん美味しいものを食べたい、住みやすいところに住みたいなどはありますが、なくてもいいかなと感じます。それではなぜパートナーさえいさえすれば良いと思っているのでしょうか。

 それは私の気持ちを正直に毎日話せるからです。その情報をもって後から話すことがあるからです。しかしこれは友達にもできます。そう考えるとパートナーがなくても大丈夫だなと感じます。

 考えてみると執着がなくなりました。今で十分満足しています。これ以上の何を求めるのだろうかという形です。それでは何をして生活していくのか、生きていくのかという話ですが、最近は呼吸に興味があるので呼吸のアプローチを極めてみたいです。私の背中はまっすぐでストレートらしいです。そのため背中を柔らかくして背中を丸められるようになった自分に会ってみたいのです。

 同じような形で開脚前屈もやろうと試行錯誤してきました。結果はだいぶ柔らかくなり、筋肉の伸び縮みを実感できるに至りました。どのくらい伸ばすと次はこうなるという予想がつくようになったのです。以前はただ硬いだけでした。伸ばそうとストレッチするとカラダが痛みました。ストレッチする前は痛みすら感じず生活していました。ストレッチをするとその神経を動かすからか何故か痛みを感じます。痛みを感じるよりも感じない方がいいなと思いますが、ほぐした先には自分の力で動けるというささやかなご褒美がありました。毎日の幸せ、達成感に繋がるわけではないのですが、以前に比べて健康になったなとは感じます。緊張し続けることがなくなったなと思います。代償としてダラけることも多くなったのですが、これもおそらく筋肉を動かしていなかった時と同じでしょう。副交感神経を優位にしないといずれは心に傷をおいます。囚われの思考の中でループします。バランスを取ることは厄介なことも増えますが、結果的に長い目で見ると「できることが増えている」のではないでしょうか。また「好きなものに囲まれる」ことに繋がるのではないでしょうか。

 自分の感覚に敏感になるのは、人の顔色を伺うよりも私にとっては難しいです。それでも人にこたえていると自分はどうしたいのかがなくなって、結果的に「なんのためにやっているんだろう」という感覚に苛まれます。自分にこたえても「なんのためにやっているんだろう」となりがちなので、この辺もバランスかもしれません。

 私は目標や狙いを立てることなく今日までやってきました。今は無性に新しいゲームを始めたり、新しく何かをしたい気分です。自分を刷新したいのです。やるかどうかは悩んでいますが、今日はここまでにしようと思います。無性に自分を表現したい、気持ちを書きたい欲はなくなりました。


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