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カバンの中のヴィバルディ
私は小学生時代、中学受験のため塾へ通っていた。
塾の休みは木曜日だけ、土曜日曜も模擬試験やら何やらでお昼過ぎまで塾へ。塾詰の毎日。
平日、学校が終わってからマミーのやっていた喫茶店へおじいに送ってもらう。そこで宿題やら予習やら。余談だが、私は母親の事をマミーと呼んでいる。ちなみに父親の事はパピー。
マミーが店を閉める時間、それは私が塾へ行く時間。マミーの車で塾へ向かう。毎日同じ繰り返し。
ある日、いつものようにマミーの喫茶店へ向かう。何故かは覚えていないが、その日おじいから携帯電話を借りた。ガラケーが世間に浸透しつつあった時代。私の周りの子達もほとんどが自分の携帯を持っていたが、私は持っていなかった。
カバンに入ったおじいの携帯。
いつもの様に授業が始まる。その時の科目は理科だったと思う。教科書をめくる音。シャーペンのカチカチ。そんな小さな音で出来ている空間。突如鳴り響くヴィバルディの四季・春。3和音で作られる雑な電子音。
誰やぁ!
先生の声。
携帯は電源切っとかなあかんって言っとおやろ
私は忘れていた。おじいに携帯を借りた事を。机の横に下げられたカバン。その中で情緒もクソも無いヴィバルディが演奏され続けている。最大音量で。
あっ!
初期のガラケー。短い演奏時間。ヴィバルディが2回目の四季を演奏し始めた時、私はやっと気付く。
うわ、最悪や
焦ってカバンの中から無機質に光りながら演奏を続けるヴィバルディを引っ張り出す。黙らせ方が分からない。
先生、すみません。止め方がわからへん。
その時の先生の表情は覚えていないが、笑顔で無かった事ぐらいはわかる。何故なら、先生もどうしたらヴィバルディが演奏をやめてくれるか分からなかったから。
事務室へヴィバルディを運ぶ先生。事務のお姉さんが預かってくれた様だ。その後の授業はひたすら下を向いていたと思う。恥ずかしくて、全身が燃えそうだった。本当に燃えていたと思う。
授業を終えて、事務室へ。ヴィバルディを返してもらいに行く。事務のお姉さんへお礼を言い、塾を出る。マミーが迎えに来てくれるのを待ちながら、私はおじいを恨んだ。
何で、アラーム何か設定してるん
そう、ヴィバルディが演奏を始めたのは誰かから急ぎの電話があったわけでも、メールが入った訳でも無い。謎のアラーム。夜の8時前に何のお知らせが必要なのか、何で四季なのか。
意味不明や
全ての事に腹が立った。私のおじい嫌いに拍車をかけた出来事。小学生の私には大事件だった日。
私のおじい嫌いは当分続くことになったし、その出来事があったからかどうかは分からないが、私の携帯は今でも常にマナーモードだ。
自分の携帯を持ち始めて、15年程になる。ガラケー、ピッチ、スマホ。何台も換えてきた。その間、技術は恐ろしく発展している。3和音のヴィバルディなんかとは比べ物にならない。携帯電話から発せられる音は素晴らしく良くなっている。それでも、歴代の携帯達が音を出した事は無い。
今日も私のiPhoneはマナーモードだ。ちなみにおじいのスマホは、今でも最大音量で電子音を鳴り響かせている。