#不思議系小説 阳炎
陽炎が踊る真昼の中華街。
路肩の植え込みに投げ捨てられた、ラベルに見たこともない文字の踊る空き缶からこぼれたビールに真夏の陽射しが煌めいて、むわっとしたやるせない香りを放つ。気の抜けたビール、缶底に残って腐れたビールの匂いは、そのまま幼少時代に味わった地獄の匂いそのものだった。
プルタブの外れた飲み口の溝に溜まった薄黄色の液体に小バエが溺れて浮かんでいるのだけが、朦朧とした視界の片隅で何故だかクリアに見えていた。翅の模様、潰れた複眼、折れて千切れた左右の触覚。それらを背景に鮮明に浮かび上がる痛みと憎悪の時代。
あの頃。何かと言えば手が飛んで、息をするように罵倒され侮辱的な言葉を投げつけられ浴びせられて生きていた。安い発泡酒で酔いの回った、ジトつく嫌な目つきとアルコールに歯槽膿漏の混じったおぞましい口臭。それが多感な時期の週末のルーティンだった。
今思えば手っ取り早く、遺書にバッチリ名前を残して死んでやらなかったのが不思議なくらいの精神状態で生活していた。逆に殺してやろうと思ったことも二度や三度ではなかった。いったい何が如何してそんなに自分で自分を生かし続け、殺意や希死を抑え込んでいられたのか、どうしてそんなにしてまで生きてなきゃならなかったのか。実は未だによくわからない。
あれを思えばマシになったと思うけれど、あの時死んでればそれはそれで楽になれただろうに。
とにかく毎日毎日、消えたかった。
朝が来るのが嫌で夜も眠れなくなるくらい毎日毎日毎分毎秒の憂鬱三昧を如何して乗り越えられたんだろう。ぎらつく陽射しがらせんを描いて、湿った心の表面だけ乾いた薄皮一枚で覆っただけのドブ臭い部分に深々と突き刺さる。
客足の及ばない中華街の片隅にある、そのまた路地のごみつく地べたに座り込んで、破れた庇の下で古びたラジオを点けっぱなしにしている一人の老人。
すっかり色が抜けてしまい、何百回と洗濯をして薄くなったヨレヨレのシャツと、それと同じぐらい穿き古したカーキ色のズボン。
らせんを描いて突き刺さる真夏の陽射しを遮った分厚いビニールの庇に描かれている、何処か暑い暑い国からやってきた、
揺らめく漢字二文字は阳炎。
流れていった汗と涙と鼻血で出来た擦り傷を塞いで黙らせる記憶の瘡蓋。どす黒い血を固めて出来た宝石が異臭を放つとき、誰にも触れることの出来ない最後の景色がゆがんで終わる。
自分の脳髄でキャッチしろ。それを自分の電波にして、晴れ過ぎて白く飛んだ真夏の空をビリビリ震わせてやれ。
それがお前の最後の阳炎。
歌おう、生きてる限り。力の限り。何故かわからないけど気が付いたら生まれて生きてる、その幸運も不運も誰かの唾臭いマイクロフォンで叫び出せばそれがお前の声になり心になり影に焼き付いた傷跡になる。
誰かの生きた痕跡ばかり辿っても、お前の人生は生きられない。
折れてしまった足に潰れた義足をあてがっても、お前の道は歩けない。
目の前で揺れているのは誤魔化しと臆病と言い訳の阳炎。
揺らめく悪夢を振り切って、蘇る傷跡の痛みを振り切って、罵詈雑言のリフレインを振り切って、理由なき暴力の雨を振り切って、傘の先を喉元に突き立てて、血の雨の降る県営住宅B棟404号室から飛び出して、中華街の路地をDerecho Izquierda.
辿り着いた先は夕暮れの、何処にでもある見知らぬ街角。誰の家ともわからないけど二階の窓に明かりが点いてる。街灯が二度三度と細かく点滅して白く不自然な光を投げる。
気温が下がっているのに少しも涼しくならないのは体温が下がって来ないから。
気温はどんどん下がっているのに少しも冬にならないのは季節が巡って来ないから。
記憶がどんどん薄れていくのに少しも忘れられないのは傷跡が消えてくれないから。
傷跡がどんどん薄れていくのに少しも忘れられないのは記憶が消えようとしないから。
記憶を消そうとしないから。
とぼ、とぼ、と歩き疲れて帰りついたのはいつかの路地裏。庇の下で座り込む老人のラジオからは見知らぬ言葉の鎮魂歌。
冷たい体を汚れたコンクリートに預けたまま老人は死んでいた。
明かりの消えた遠い街並みの片隅で死んでゆく一つ一つの傷跡と記憶を見送って、また明日も日が昇り気温が上がれば揺れる阳炎。