憧れの人はいま、いずこに。『毎日同じ服を着るのがおしゃれな時代』を読んで
私が初めて三浦展さんの本を読んだのは『マイホームレスチャイルド』って本だった。2001年出版だ。今から20年以上前のことだ。若かりし学生だった私はこのような視点があるのかととても感動した覚えがある。
その後、三浦さんは次々に本を出版され、『下流社会』って本が平積みになっているのを見かけたときは、正直、直視できなかった。あの時、感動を覚えた著者はこんな強い言葉を使う作家になられたのかとびっくりしたことしか、覚えていない。読んだような気もするが、内容が思い出せない。
そして今回、久しぶりに、三浦展さんの本と再会した。2016年出版の本だ。
三浦さんはもともとパルコのマーケティング情報誌を編集されておられたという経歴からも頷けるように、客層を分析するかのように、世代や社会を階層化し分析する本が多い。彼の本との出会いから20年以上経て思ったことは、「シェア」に対する違和感だった。
20数年前はシェアという考えの元になったであろう「都市にすむ」という発想に感動を覚えた。しかし、現在はなぜか違和感を感じてしまう。
20数年前は私もマイノリティではない、自分はマジョリティの一粒である、そうなれると信じていた。マジョリティの一粒として、社会に住み分ける、「シェア」できる自信があったのだ。だから、コトコト交換をするんだと息巻いていたような気がする。今は、どうだろうか?
「シェア」とは同じ和の中でなければ成立しないことだと思う。例えば、その和の中で、何か問題が起きた場合、犯人探しが始まる。その時、「シェア」の中で一人落ちこぼれていては、犯人にされかねないのである。「シェア」に入れてほしくても、その階層から漏れてしまった人が、無理やりその和に入っても精神的につらいことが多いのである。昔流行った言葉で言い換えるなら、私は蛸壺の中にいるほうが楽である。
自分がいろいろな意味でマイノリティになってわかったことがある。自分で感じていないことを感じるように外部から半ば強制されることが多いということだ。
この本の中でもそれを節々で感じてしまい、以前は新鮮に感じた世代論に胸が苦しくなってしまった。
私は趣味が多いし、孤独を感じていない。正直、一人が楽しいし、毎日時間が足りないくらい。しかし、他人から見たら一人ぼっちで寂しい孤独な人に見えるのだろう。ペットを飼うことをすすめてきたり、~ちゃんがうらやましいでしょ、と不躾な発言をしてレッテルを張ってくる人が実に多いのだ。だから、よっぽどの交流がない限り、ひとりの時間を楽しんでいる。
レッテルを張ってこられたときは、しっぽを巻いて、寂しい孤独な道化を演じるようにしている。それが、平和だと思うからだ。先入観とは厄介なものなので、戦わないのがよい。
しかし、改めて、出版から時間が経った本を読んでみると、時代はどんどん変わっていっているなと驚く。時間にもシェアどころか、タイパを求める時代である。
ほんの数年前でさえも、のどかな価値観の時代だったなと遠い目をしてしまう。
三浦さんは人間味のある方だと思う。だからついつい三浦さんの本を買ってしまう。
「こんなふうになるとうれしいよね」と思えることを増やしていきたいな、がこの本の感想です。