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オフコース論③5人のロックバンド期その2(1980~1983)

前回は1980年3月5日発売のシングル「生まれ来る子供たちのために」までをご紹介しました。5人のオフコースの快進撃はここから始まります。と同時に、重い悩みを背負ってしまうのでした。

シングル「Yes-No」から日本武道館へ

1980年6月21日、シングル「Yes-No」が発売になります。前シングル「生まれ来る子供たちのために」のセールスが芳しくなかったためか、「Yes-No」は思い切りメジャー路線に振り切ります。この180度の変換は、小田さんの商家に生まれ育った商人としての勘が働いたのではないでしょうか(実家は薬局)。自分達に求められるものと、やりたいことの最大公約数を突き詰めた結果、この曲に辿り着いたような気がします。実際、「Yes-No」は「さよなら」の時ほど売れ線云々の話は無く、バンドの総意として自然に出てきたような気がするのです。その結果、この曲は前作の不発を打ち消すかのように大ヒットしました。

この頃、オフコースは初めての日本武道館公演を行います。当時の日本武道館は超一流の証で、収容人数が一番多いコンサート会場でした。武道館公演の打診があった時、小田鈴木両氏はそれほど乗り気ではなかったようですが、3人が「やろう!やろう!」と背中を押したとのことです。
初めての武道館の時ではなかったと思いますが、この後2日間の武道館公演を行った時、音響や演出に拘り、当時は一般的ではなかった公演の撮影を行った結果、収益は50万円だったそうです!50万円ですよ!武道館に人を集めて物販収入もあるであろう2日間のイベントの収益が50万円…。全員で打ち上げをしたらすぐに消える金額です。採算度外視でクオリティーを追求するのも、またオフコースらしいことでありました。

1980年11月21日アルバム「We are」発売

そして11月21日、今も名盤名高いアルバム「We are」が発売になります。この1年前に「Three and Two」が発売になった訳ですが、それが1年前だとは信じられないくらい、実に濃密な1年が過ぎていたのでした。この間に「さよなら」のヒット、ライブアルバム「LIVE」の発売、初めての日本武道館、など、5人のバンドが熟成するためにゆっくり流れていた時間が、ここで一気に凝縮された時間になりました。こういう時期のことを、上昇気流と言うのでしょう。間違いなくこの時期のオフコースは、上昇気流に乗っかっていたのだと思います。

この「We are」では、初めてミックスダウンのエンジニアをアメリカ人に任せました。Bill Schneeという人物です。小田さんはBoz Scaggsの「Middle Man」というアルバムを聴いて「音が良いな~!」と思い、エンジニアリングのオファーをしたということです。この頃からの録音は、今は無き伝説のフリーダムスタジオで、24トラックのレコーダー(SONY PCM-3324)と16トラックのレコーダーを同期させていたようです。トラック数は飛躍的に増えた訳ですが、その分楽器類が増えたということではなく、装飾音や細かな部分のトラックの振り分けが行われていたのだと思います。

「We are」は小田さん6曲、鈴木さん3曲、松尾さん1曲のバランスで収録され、それまでほぼ均等だった小田鈴木両氏のバランスが崩れ始めます。後年鈴木さんは「あの頃は何を作っていいのか分からなかった。作ってもメンバーに<それは違うんじゃないか>と言われたり。それは小田が作ったものでも同じだった。<オフコースっぽくないよ>と言われると、何を作っていいのか分からなくなった。メンバーそれぞれが、オフコースというものにイメージを持ち始めたんだと思う」と語っています。そんな理由もあり、鈴木さんの楽曲提供が少なくなったのかもしれません。

とは言え、アルバムの完成度は非常に高く、このアルバムをオフコースの最高傑作と断言する人も少なくないでしょう。「時に愛は」でのギターバトル、「一億の夜を越えて」の疾走感、松尾さんのリードボーカル初のアルバム収録曲「せつなくて」での小田鈴木両氏の見守り支えるようなコーラスワーク、「きかせて」での張り詰めた緊張感と他の追随を許さない重厚かつ美しいコーラスなど、40年以上たった今でもそのクオリティーは色褪せません。そしてオフコースはコンサートツアー「We are」を開始します。

ある日の出来事

コンサートツアーとは、パッケージになって同じメニューを違う場所で行なうものですが、初日から最終日まで全く同じということはほぼありません。パッケージを作るまでに色々考え、リハーサルをして、よしこれでいこう!となる訳ですが、実際にお客さんを前に演奏してみると、思っていたような雰囲気にならなかったり、盛り上がるところがイマイチ足りなかったり、思ってもみないところで盛り上がったりと、やってみないと分からないことがたくさんあります。

「We are」のツアーも例外ではなく、何度も何度も途中でミーティングをし、リハーサルをやり直しました。そしてようやく納得のいく構成が出来た日のリハーサル後、当時のマネージャーはオフコースカンパニーの役員である小田鈴木両氏に、重要な話があるので残ってもらうようお願いしました。
重要な話とは、オフコース専用のスタジオ建設に関する話でした。ようやく資金の目途がつき、本格的に動き出すためのミーティングがしたかったのです。しかしその話は、ものの数分で終わりました。何故なら、その時鈴木さんがこう言ったからです。

「その話を進めるのは待ってくれ。このツアーが終わったらオフコースを辞めたいと思っている。オフコースカンパニーからも抜けたいと思っている。今将来の話をするのは待ってくれないか。」小田さんは即座に「2人で話そう」と鈴木さんを誘い、2人きりで話すことになったのでした。

鈴木さんの想い

鈴木さんは「さよなら」のヒットに関して、「あれは俺のヒットじゃない。小田のヒットだ」と言ったのに対し、小田さんは「さよならはオフコースのヒットだろ?」と返したといいます。鈴木さんはそれまで小田さんと対等にやってきたのに、「さよなら」がヒットしたことにより、自分の存在理由がなくなってしまうのを危惧したのかもしれません。それに加え、「オフコースらしさ」という枠組みも窮屈に感じ、自分がやりたい音楽との方向性にズレを感じ始めたのかもしれません。

小田さんは何とか説得を試みますが、鈴木さんの意志は固く、もう小田とはやりたくないと言われたそうです。オフコースは誰がリーダーだと決めることなく始まったグループでした。ただ、自作の曲に関しては作者がリーダーシップを取るのはごく自然なことで、その曲がヒットすれば作者に注目が集まるのも自然なことだと言えます。シングル曲は小田さんの曲が殆どでしたので、そういった不満も鈴木さんにはあったのかもしれません。

鈴木さんの意志は「We are」のツアーが終了するまで他のメンバーには知らされませんでした。小田鈴木両氏と一部のスタッフのみが悩みを抱え、大盛況の中ツアーは進んでいくのでした。

1981年6月21日シングル「I LOVE YOU」

水面下では色々ゴタゴタしていましたが、バンドの活動自体は更に精力的になっていきます。まず6月21日にシングル「I LOVE YOU」が発売になりました。この曲のレコーディング時、あの加藤和彦氏がスタジオに遊びに来たそうなのですが、シングルのレコーディングだと聞いて、「これがシングルなの⁉売れてる時は何でも出来ちゃうからいいよね!」と言われたそうです。確かに「I LOVE YOU」という曲は、良い曲ですがシングルとしてキャッチーなのかというと厳しいかもしれません。寧ろB面の鈴木さんの曲「夜はふたりで」の方がA面向きのような気がします。ここで「夜はふたりで」がA面になっていたら、鈴木さんの脱退は無かったのでしょうか?興味あるところです。

「SELECTION1978~’81」から「over」へ

1981年9月1日、2枚目のベストアルバム「SELECTION 1978~’81」がリリースされます。このアルバムでもミックスのエンジニアはBill Shneeが担当し、Billが担当しなかった「風に吹かれて」「夏の終わり」「愛を止めないで」「さよなら」「生まれ来る子供たちのために」「愛の終わる時」が新たな音に生まれ変わります。特に「風に吹かれて」と「愛を止めないで」のスネアが、深く重たくも張りのあるシャープな音に変わり、曲のエッジを更に強調するものになりました。このアルバムは当然の如く大ヒット。オフコースの勢いは更に加速していきました。

そして次のアルバム「over」のレコーディングに入ります。このレコーディングの様子はNHKが長期密着取材をしており、後にNHK教育テレビにて「若い広場~オフコースの世界~」として放映されました。テレビには殆んど出演しなかったオフコースが、ドキュメントの取材を受けたということに驚きを持たれたようです。今にして思えば、この番組で5人揃ってのオフショットが少なく、息抜きの野球のシーンでも、成田空港へ向かう車内のシーンでも、鈴木さんの姿がありませんでした。野球のシーンでは「曲作りが遅れている鈴木を除いて~」とテロップはありましたが、何となくモヤっとしてしまいました…。

それにしても、この「over」というタイトルはいつ決まったのでしょうか。「We are over」となれば、もう直球ど真ん中なのですが、少なくとも「We are」を作っていた頃やリリースした時点では、鈴木さんの気持ちは表明されていなかった訳ですから、もしそれを伝えなかったら「over」というタイトルにはならなかったのではないでしょうか。その場合、「over」は何というタイトルになっていたのでしょうか。「fine」とか「happy」とか?(笑)。そんな想像をするのも楽しいですが、もしそうなら「言葉にできない」も「心はなれて」も生まれてなかったでしょう。それはまた微妙な感じです。

1981年12月1日アルバム「over」発売

「We are」に続く次のオリジナルアルバムは「over」と名付けられました。オフコースのメンバーは誰も解散について言及しませんでしたが、今にして思えば、このタイトルはどう考えても解散を意味している訳で…。鈴木さんは「自分は抜けるけど、誰か他の人間を入れればいいじゃないか」と思っていたそうですが、小田さんは「それはあり得ない」とその意見を拒絶。その結果、内密にオフコースの解散が決まったといいます。とは言え、それを正式に発表することなく、うやむやにしていたところに、迷いとバンドに対する愛情を感じます。この迷いはこの後長い間、周囲をも巻き込むことになります。

「over」に収録された楽曲は小田さん6曲(うちインスト1曲)、鈴木さん2曲、松尾さん1曲の計9曲でした。小田鈴木両氏の均衡は完全に崩れていますが、だからと言ってバンドらしさが無くなった訳ではありませんでした。やはりそれぞれが奏でるそれぞれのパートは、メンバーそれぞれの音であり、そこにバンドの強さを感じます。しかしそれでも、「Three and Two」や「We are」にあった疾走感は影を潜め、冬の大海原に浮かぶ大型船が、エンジンを止めたような静寂とうら寂しさを感じます。

このアルバムでは松尾さんの「僕のいいたいこと」が素晴らしいです。この曲、いわゆるオブリガード(裏メロ)があるのですが、ワタクシは元々裏メロの方が主旋律だったのではないかとニラんでおります(笑)。根拠は何もありませんが、何となくその方が自然な気がするのです。ライブでは小田さんが裏メロを歌っており、松尾さんとの相性が抜群なのがよく分かります。

5人最後のコンサートツアー「over」

年が明けた1982年1月、オフコースはコンサートツアー「over」を開始します。このツアーの目玉は、何と言っても日本武道館10日間公演でしょう。最終日は映像として記録され、公に見られる数少ないオフコースのライブ映像として、現在でも貴重なものになっております。

「over」のツアーも最初と最後の方では演奏曲や構成が大きく異なっており、ツアー初日から数か所では「君におくる歌」がメニューに入っていたり、「I LOVE YOU」が中盤に入り、「言葉にできない」がエンディングだったりして、映像になっている構成とは大きく異なっております。それもまた観てみたかったですねぇ。

一応オフコースは、このツアーを以て解散するということになっていました。しかしこれもまた二転三転し、結局曖昧なまま時間が過ぎてしまうことになります。でもそれが良かったのかもしれませんね。正式に発表してしまえば、「やっぱりやめた」という訳にはいきませんから。逆に言うと、何か引っかかったまま、結論を出すのは良くないということです。それは我々の日常の問題においても、共通することではないでしょうか。

最終日の日本武道館では、小田さんの「言葉にできない」での涙があり、世間でも「解散説」が飛び交うようになりました。実際、小田さんはステージで歌うのはこれが最後だと思っていたらしく、「心はなれて」で何とか涙をこらえた結果、「言葉にできない」で崩壊してしまったとのことでした。

「I LOVE YOU」までの15曲を演奏し、4曲のアンコールに応え、5人のステージは終了しました。5人最後の曲は「愛を止めないで」でした。これを最後に、5人のオフコースはステージから去ったのでした。

1982年7月1日 アルバム「I LOVE YOU」発売

日本武道館公演を終えた翌日、ニューアルバム「I LOVE YOU」が発売されました。このアルバムは「over」のツアー中に録音され、前作からわずか8ヶ月という短期間でのリリースです。改めて考えてみれば、このタイム感を見ると「何かが起きているな」と思うでしょう。きっとオフコースは、残された短い時間の中に、自分達の痕跡を残そうとしていたのかもしれません。

アルバムは小田さん4曲、鈴木さん3曲、松尾さん2曲の構成です。音楽的にはまだまだ新たな試みが行なわれており、例えば「素敵なあなた」でのクラビネットのシーケンス(これは鈴木さんが弾いています)、「揺れる心」での大間さんのティンパレスなど、それまでになかった技術や新たな楽器を使うことにより、これまでにない色の楽曲が出来たのではないでしょうか。また、「哀しき街」では松尾さんと小田さん、「揺れる心」では鈴木さんと清水さん、といったような新たなコンビも生まれており、バンドとしての可能性はまだまだ未知数だったと思います(「哀しき街」は「over」のレコーディング時にバッキングだけは録音されていたそうです)。

このアルバムでワタクシが一番好きなのは「決して彼等のようではなく」です。この曲は小田さんの作詞作曲なのですが、小田さんの心境が色濃く出ている力強いメッセージソングだと思います。しかし、この曲は曲解されていて、何故か「彼等」というのはビートルズで、「俺達は彼等のように解散はしないぜ」と歌っているんだ、ということを書く記事を、いくつも読んだことがあります。どうでしょうねぇ、それは…。きっとそれは時期が時期だけに、そう思いたい気持ちがそう読ませてしまっていたのでしょうね。それほど当時のオフコース人気は過熱していましたから。

ワタクシの勝手な解釈では、この曲は当時のオフコースを取り巻く人間模様だったのではないか、と思っています。それはメンバーや身近なスタッフに対してではなく、良い時だけに擦り寄ってくる軽薄な人間達に対してです。

時は誰かを道連れにして いくつかの時代を終えてきた
そのたび君は言葉探して 時代の後からついてきただけ
 
 心はどこにある 心は 心は
 心はどこにある 心は 心は

何を見ても何をしても 僕は僕の言葉でする
やりたいこともやるべきことも 今僕の中でひとつになる
 
 ためらうことはない このまま走るよ
 あなたのために歌う 素敵なことだろう

 心はどこにある 心は 心は
 君とはいつまでも 心は通わない
 君とはいつまでも 心は通わないだろう
 今こそ焦らないで 今まだ語るな
 今ならまだ戻れる 今なら間に合う

「決して彼等のようではなく」 作詞・作曲 小田和正 編曲 オフコース

小田さんは後年、「オフコースが一番盛り上がってた時に、知らない奴が事務所の忘年会に来たりしていた。忘年会をいくつも掛け持ちしているような奴が大嫌いだった」と語っています。そんな輩がたくさんいたであろうことは容易に想像がつきます。「君とはいつまでも 心は通わないだろう」という言葉は、そんな人間達に対して発せられたのではないでしょうか。相当な怒りを感じますね。最後の「今こそ焦らないで ~ 今なら間に合う」の部分は、自分達への願いのように思います。妙な奴らに持ち上げられて、自分達を利用しようとしている人間達に踊らされないように、という決意でしょうか。正直、人気バンドの解散は大きなビジネスになりますから。ひょっとしたら、解散騒動の裏で暗躍した人物がいたのかもしれません。まぁ、あくまでもワタクシの想像なので、何の信憑性もありませんが。

1982年9月21日 サウンド・トラック・アルバム「NEXT」発売

オフコースは1982年9月29日、TBS系テレビで「オフコーススペシャル NEXT」という特別番組を放送します。この番組の内容は紆余曲折を繰り返し、最終的にはコメディータッチの音楽物語に落ち着くのですが、これを最後にオフコースは完全な休養期間に入ります。その番組のサウンドトラックとして「NEXT」という企画アルバムがリリースされました。過去の曲あり、インストあり、新曲あり、ライブバージョンありと、サウンドトラックらしい構成でしたが、音楽アルバムとしても十分に楽しめるもので、「毛色の変わったベスト盤」とも言えるでしょう。

「僕等がいた」は小田さんの新曲、「流れゆく時の中で」は鈴木さんの新曲で、それぞれの心情がストレートに表現されており、「解散なんだな…」と思わせる内容になっていると思います。しかし、この時点でも明確に解散は発表されず、テレビ番組では「I'll see you NEXT time」というメッセージが最後に流れるという、何とも思わせぶりな感じで…。この辺のじらす感じが嫌いだ!という人も多いでしょうが、これはじらしていたのではなく、本当に決まっていなかったのではないでしょうか。

1983年 決着

1982年の後半から1983年の秋口まで、オフコースの沈黙は続きました。しかし、世間のオフコース人気は過熱のままで、某雑誌のキャンペーンで「We want Off Course」という運動が全国各地で行われます。活動していないのに毎月発刊される音楽雑誌にはオフコースが登場し、ありとあらゆる角度からオフコースを分析する、みたいなことが様々な雑誌で行なわれておりました。かくいうワタクシもそれらを読み漁り、その間にそれまでのアルバムを全部集め、毎日がオフコース三昧だった訳です。1982年、ワタクシは中学1年生でした。

1983年、いよいよ動き出します。と言っても、オフコースとしてではありません。鈴木さんが「有限会社 鈴木音楽事務所」を立ちあげ、オフコースカンパニーから独立したのです。ソロとして東芝EMIと契約し、同年8月21日にアルバム「Sincerely」、シングル「愛をよろしく」でソロデビューします。このアルバムのドラムは大間さん、ベースは清水さんが担当しており、ほぼオフコースのような感じですが、打ち込みのプログラミングを鈴木さん自身が行なっており、バンドとはまた違うアプローチも成されています。ただ、まだシーケンサーが完全に制御出来る時代ではなかったので、今聴いてみると、現在に続く時代の流れの原点を知ることが出来ると思います。

同時期、オフコースカンパニーでも動きがありました。1982年7月31日でメンバーとのアーティスト契約が終了したままだったのですが、改めて再契約をしようという動きになり、この契約にサインをしたのが小田さん、清水さん、大間さん、松尾さんの4人だけだったのです。この時点でオフコースは4人ということになり、近々何らかの発表がある、ということになりました。それは1983年9月のことです。

この辺のいきさつは、アーティスト活動とは別のビジネス的なことなので、我々のようなファン向けには何も説明はありませんでしたが、約1年もの間、小田さんは鈴木さんを説得し続けていたのではないでしょうか。鈴木さん抜きでのオフコースはあり得なく、バンドを解散することもしたくなかったのでしょう。鈴木さんがオフコースカンパニーを抜けても、カンパニーと鈴木音楽事務所の提携でグループを存続出来ないか、というようなことも交渉していたのかもしれません。それが可能であったら、小田さんが5人の最後の頃に言っていた「新しい契約の形態」のモデルとなったことでしょう。

その痕跡とも取れるものが、鈴木さんのソロデビューシングルです。初回プレスのジャケットには「鈴木康博(オフコース)」と書かれていたのです。個人事務所を設立し、ソロとしてレコードを出しているのに「オフコース」という看板を掲げてしまっては、独立した意味がありません。レコード会社は「オフコース」というブランドがあれば売り上げは見込めるので、売らんがために何でもやりそうですが、それは鈴木さんの方で許さないでしょう。この辺の諸々は本当に謎です。当時の音楽雑誌でも「オフコースの鈴木康博のソロアルバム!」という体で記事が書かれており、もう何が何だか分からない状況でありました。ひょっとしたら、レコード会社もオフコースは解散したのか存続しているのか、分からなかったのかもしれません。それほどこの解散騒動は、混沌としてグチャグチャになっていたのだと思います。

そんなこんながあり、鈴木さんのオフコース正式脱退は1983年9月となっており、それと同時に、オフコースは4人になったという訳であります。
今回はここまでです。次回は4人時代編となります。







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