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福祉から平和を(10)心の拠り所とはなんだろう

ホームレスとハウスレス

以前、このような記事を書きました。

読んでいただければ幸いですが、要点だけ引用するとこういうことです。

住居がないのはハウスレス。
心の拠り所がないのがホームレス。

ホームレス襲撃事件の犯人は、家にも学校にも居場所がなかった。少年の心の安住地がなかったこと、家があれども心はホームレスだったことを、ホームレスのおじさんは知っていた。

それでふと思いました。ホームには人が必要なのだろうか?と。

そばに人が居るから、心の拠り所が無い

見渡す限り人が居ない野原を散歩しているとき「心の拠り所がない」とはならないでしょう。風光明媚な景色を楽しみながら、微風そよかぜ、日光、草木の香り、鳥のさえずりなど…自然の恵みを五感を活かして感じている時、心は自然に集中している。そんなときには「心の拠り所がない」と思わないでしょう。

逆に、そばに人がいるとき。人がいるけど関われない、存在が気づかれていない、もしくは認められていない、もしくは居ないように扱われて自分以外のみんなで盛り上がっている。自分の存在は蚊帳の外。「心の拠り所がない」と思うのはそういうときではないでしょうか?

ホームレスを襲撃した少年も、その彼に共感したホームレスのおじさんも、近くに人が居るときのほうが辛かった。そばに人が居るときほど心はホームレスになっていたのではないか、と思います。そして、一度その考えにとらわわれてしまうと、独りになってもその考えにさいなまされていたかもしれません。

そばに人が居ないとき、自分はどうだろう?部屋でひとりでいるときはどうだろう?趣味に没頭している時。新しい料理に挑戦している時、好きなラジオを聞いている時、無心で創作している時、そういうときには「心の拠り所がない」と思いません。楽しんでいる時は、心の拠り所が”ある”のです。

心の拠り所とはなんだろう?ラジオパーソナリティ?
いや、どうやら人ではなさそうだ。趣味?自然?
いや、そういうことは、本質ではないと思う。

次の記事で俺の持論を聞いてください。(つづく)


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