映画日記#8 『夜明けのすべて』(三宅唱監督、2024年)

結末への言及あり。

ちょっと前に前作『ケイコ 目を澄ませて』(まだ観られていない!)で注目された三宅監督の最新作。撮影監督も前作に引き続き月永雄太で、16mmフィルムで撮影されている。

これがまたすごい。現代における16mmフィルムの意味を再認識させられた。ノスタルジックな雰囲気を出すために使われるだけじゃないのだ! この映画は「思い出す」系のストーリーではなく回想のシーンもほとんどない。ただ現在を、日常を映すための16mmフィルム撮影。

それによってどうなったか。光の粒子が粗く映ることにより光そのものに物質感が与えられ、光そのものの持つ存在感が強まる。終業後のオフィスの奥の部屋の光、歩道橋の上の街灯の光、そしてラストの、オフィス屋外を広く捉えたショットにおける昼の光。この光の粒子は、対象からやや離れたショットで特にその存在感を強め、この現在を美しく見せる。カウリスマキがフェルメールのような光だとしたらこちらはモネのような光。

主人公二人の関係性が恋愛にならないということを観客に印象づける配慮も行き届いている。その口調、距離感、振る舞いなどの演技面はもちろん、山添の部屋での「セクハラだよ〜」などの笑えるやり取りや、ポテトチップスを口に流し込む食べ方などがそれである。

二人の関係性は友情というか協力関係というか、容易に名づけ得ないものである。互いの病を知らずに衝突したり病のランクづけをしたりする段階から、髪を切るというアクションを経て(トンネルをポイントとして関係の進展がわかる!)、自転車というガジェットを通じて藤沢は山添を外へと連れ出す。宇多丸がラジオで言っていて膝を打ったのは、序盤の山添は元上司への健康アピールのためだけの、どれだけ漕いでも進まないエアロバイクに乗っていたが、藤沢にもらった自転車によって外へと出て、早退した藤沢のもとへ行くのだ、という点。このとき自転車に乗って藤沢の家へ向かうシーンがわざわざかなり丁寧に描かれるのは、このシーンが重要だからだ。暗い影が落ちる道の前で一瞬立ち止まったかと思うと、勾配のきつい坂では自転車を降りて押して登り(子供を乗せた母親の自転車が追い抜かしていく!)、しかし忘れ物を届けた後は軽快で爽快な道のりで、この前の『PERFECT DAYS』のような美しさ。

そして会社に着いた山添は、序盤の藤沢と同じように、甘いものを同僚たちに配る。序盤では山添が断っていた甘いものを藤沢と同じように配るのは、山添がこの会社に自分の身を浸していくことをよく象徴する。

山添はこのような変化を遂げて職場を離れることをやめるが、藤沢はしかしこの職場に留まることはしない。母の介護のため地元へ帰るのだ。この潔さ。これでこそ、ただの現在、ただの日常。よくある映画のような運命性を帯びない、リアルな時間の流れ方がある。

そしてラスト手前の天気雨は冒頭の雨と対照をなす。どちらも傘をささない藤沢の姿が映る。冒頭では、灰色のスーツが雨で黒く濡れそぼり、バス停のベンチにゆっくりと倒れ込むが、ラストでは穏やかな表情で、まるで濡れていないかのよう。

様々な演出が特別でありながら日常である一瞬を描き出す稀有な映画。

実はよく意味のわからないところもいくつかある。社長である栗田が山添とともに故人である弟に酒を供えるシーン。この直前栗田は山添のヘルメットを逆に被ってしまい、ひと笑い合ってから正しく被り直すのだが、手を合わせるシーンでも栗田は被ったままだ。いかにも意味ありげなのだがどういう意味があるのかが今ひとつわからない。

それから、栗田の弟が生前に書いたノートの後ろの方のページに、山添が見つけなかった記述を藤沢が見つけるシーン。この記述はノートを逆さまにして書かれていて、それを見つけた藤沢はわざわざノートをひっくり返さなければいけない。この動作にどういう意味があるのか。まさか意味がないことはないと思うのだが。

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