映画日記#1 『ゴジラ−1.0』(山崎貴監督、2023年)

 なんというスペクタクル、なんという血湧き肉躍る戦闘、そしてなんというゴジラの恐ろしさ。大変に素晴らしい映画体験であった一方、厳しく批判したい点がある。ここではそれについて詳しく述べてみたい。

『ゴジラ−1.0』とは何か

 このゴジラはこわい。この「こわさ」が重要である。試みに、『シン・ゴジラ』(庵野秀明監督、2016年)と比べてみよう。『シン・ゴジラ』のゴジラ(以下、シンゴジ)は正体不明の巨大生物として姿が見えないまま海中に出現し、トカゲのような第2形態(蒲田くん)、肉食恐竜のような第3形態(品川くん)、いわゆるゴジラの姿となった第4形態(鎌倉くん)と次々に姿を変えて東京に襲来するが、どの形態においても目的なくただ辺りを破壊し続けているように見える。まるで災害のように。

 そう、シンゴジは「災害」である。蒲田くんの川の遡上シーンや放射線による汚染、市民の避難は2011年3月11日の東日本大震災を直接的に想起させる。地震や津波は人間社会の営みとは無関係に訪れ、すべてを破壊していく。そこには意志はない。言ってみればただの「作用」である。しかしゴジラが襲うのは東京であり東北ではない。震災当時、大臣か誰かが「東京でなくて良かった」と発言して問題になっていたが、『シン・ゴジラ』はその裏にある「東京に震災が起きたらどうしよう」「東京で原発事故が起きたらどうしよう」なのである。シンゴジは災害であり、最後の凍結シーンからも明らかなように「原発」なのである。

 一方で『ゴジラ−1.0』のゴジラ(以下、マイゴジ)は人間たちを狙い撃ちする。咥えて放り投げ、船をつけ狙い、電車を引きちぎる。最もわかりやすいのはその眼である。シンゴジの眼は虚で、どこを見ているのかわからなかった。しかしマイゴジはこれから破壊する対象を確と睨みつけている。人間を攻撃しているのだ。だから「こわい」。

 そう、マイゴジは「戦争」である。太平洋戦争で地上戦が行われたのは日本では沖縄だけ、最終兵器・原爆が落とされたのは広島と長崎だけであり、東京ではない。『ゴジラ−1.0』は「東京で本土決戦を行っていたらどうしよう」「東京に原爆が落ちたらどうしよう」なのである。マイゴジは戦争であり、黒い雨のシーンからも明らかなように「原爆」なのである。

主人公たちは何を目指すか

 政府は機能不全、GHQはソ連を警戒し手を出さない中、主人公たち有志の市民が立ち上がり、旧日本軍の戦艦や戦闘機を用いてゴジラを倒す。

 主人公は特攻から「逃げ」た男である。逃げた先で一度ゴジラと出会い、仲間を救えたかもしれないのにまたも「逃げ」る。さらに東京で自分を守ってくれた女を失う。この三重のトラウマの解消が、ゴジラ撃退を通じて目指される。

 主人公サイドには、元海軍兵士たちが集まっている。科学者、江戸っ子的人物、そして戦場に行っていない若者。科学者は大日本帝国が「天皇のために死ぬ」ことを賛美して「特攻」という結論に至ったことを批判し、「この戦いでは、全員が生きて帰ることを誇りとしたい」と宣言する。非常にポジティブで現代的な、ストレートな反戦メッセージである。しかし江戸っ子は、自分たちが戦いの中で死ぬ可能性から、何も言わないまま若者を船に乗せずに置いていき、未来を託す。この二人の行動は矛盾している。言葉では特攻精神を批判しつつ、行動はそのまま特攻なのである。

 しかも、集まった人々は「民間」であることが強調されるが、実際のところ元海軍兵ばかりなのである。指導部ではない、というだけである。しかも旧日本軍の戦艦や戦闘機が使われる。

 ここまで考えれば、結局この映画でなされるのは「あの戦争のやり直し」であることに気づくだろう。ゴジラが戦争であり原爆なのだとしたら、ゴジラはアメリカであると言えるだろう。しかもGHQは明らかに不自然なくらい姿を表さない。アメリカと戦うのに、アメリカに守ってもらってはおかしいのである。頭のおかしい戦争指導者のせいで戦争に負けたのだ、輝かしい兵器たちを使って俺たちが死ぬ気で戦えば勝てるのだ、いざ本土決戦!というわけである(ちなみに、この考えのおかしさは『日本のいちばん長い日』(岡本喜八監督、1967年)を観ればわかるだろう。さらにちなみに、『シン・ゴジラ』はこの映画に強く影響を受けているらしい)。別に山崎貴がそう思っているんだろうと言っているわけではない。結局そういう構造になってしまっていますよ、ということだ。こんな構造の物語では、いくら口で「特攻精神はダメだった」と言っても意味がない。これが私の批判の一つ目である。

ゴジラ被害者としての「日本」

 「あの戦争のやり直し」のダメさは、これだけではない。この映画において日本及び東京はゴジラ≒原爆に襲われる「被害者」でしかない。しかし、実際の歴史を見てみれば、そんな単純な構図ではないだろう。確かに日本は世界で唯一の被爆国であり、原爆は最悪の兵器である。米軍の原爆投下は許されないものだ。その意味で日本は被害者ではあるのだが、ではなぜそのような状況に陥ったか、という発想がこの映画からは抜け落ちているように思えてならない。

 どちらかと言えば日本は加害者である。満州に傀儡国家を建て、日中戦争で中国を攻撃し、朝鮮半島・台湾・東南アジア諸国・南洋諸島を植民地支配した。これが「加害」でなくて何だろうか。この映画のゴジラが「戦争」であるのなら、アジア諸国にとっての日本こそが、恐るべきゴジラなのではないだろうか。この視点が抜け落ちたまま、被害者としての日本がゴジラに反撃するというこの映画の構造は、実際の歴史における戦争への反省がほとんどないと言われても文句は言えない。これが私の批判の二つ目である。

おわりに

 日本国内でも空前のヒットとなり、アメリカでもヒットを飛ばしているらしいこの映画は、演出面や人間ドラマに対する批判もある中で素晴らしい特撮、CG技術を達成している。物語も素晴らしく面白い。アメリカでのヒットも納得である。日本特撮の一つの到達点であることには疑いない。だが、日本人として、このような構造の映画を日本の素晴らしい映画として世界に代表させて良いのだろうか、とどうしても考えてしまう。あれだけの人間が死に、あれだけの人間を苦しめた戦争からもうすぐ80年。この80年は何だったのか、などと嘆くことになるのは嫌である。ゴジラは戦争のトラウマと共に生まれ、戦後と共に歩んできた。本当に素晴らしいゴジラ映画を待っている。

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