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戦前の京都における、幻想作家ロード・ダンセイニの作品受容と紹介

皆様、ごきげんよう。弾青娥だん せいがです。

このようなご時世になる前は、様々な図書館や資料館にできるだけ入り浸って自分のお気に入りの作家、監督関係の新たな資料を漁るのが週末の楽しみでした。

この度の記事では、このご時世になるまでに集めた資料を活用して、ファンタジー作家、戯曲家として活躍したロード・ダンセイニ(以下、ダンセイニ)とその作品が京都で、とりわけ大正・昭和前期の京都において、どのように受容されたかを取り上げて参ります。

岡崎公園の京都市京セラ美術館。昨秋以来行けていない京都に思いを馳せながら。


野淵昶(エラン・ヴィタール小劇場)

まず注目するのは、1910年代終盤から1930年代序盤の関西で新劇運動をリードしたエラン・ヴィタール小劇場を主宰した野淵昶のぶち あきらです。

以下の過去の記事で、同小劇場の歩みについて触れていますが、その記事では触れなかったダンセイニとの接点も、ここでは語っていきます。

野淵昶の率いたエラン・ヴィタール小劇場は数度、ダンセイニ劇を上演しました。1924年10月、宝塚小劇場でダンセイニの「山の神々」を上演した一例を除くと、全ての上演例(合計3例)は京都市内でのことになります。

  • 1921年12月15日~16日 岡崎公会堂東館
    「忘れてきたシルクハット」

  • 1923年5月24日~25日 岡崎公会堂
    「旅籠屋の一夜」
    配役:トッフ(紳士のなれの果)野淵昶、ビル 和地泉、アルバート 河村繁三、スニッガース 松村潔、クレッシの第一の僧 吉江潤吉、第二の僧 柳澤良太郎、第三の僧 宮地修三、クレッシ 久米勝

  • 1927年2月17日~18日 三条青年会館
    「旅籠屋の一夜」

会場について軽く解説を入れますと、岡崎公会堂は、現在のロームシアター京都に該当する場所に建っていた施設で、三条青年会館は今の京都YMCA三条本館の建つ位置にあった会館です。

あいにくながら、野淵昶の上演したダンセイニ戯曲に対して批評は一つもなされていません。これらの公演の劇評を一つでも見つけ出すのが、ダンセイニ研究家、野淵昶研究家としての今後の課題です。(しかしながら、松村みね子訳の「旅籠屋の一夜」で野淵昶が演出側だけでなく俳優側にもいたということは、この記事という形でまとめ上げるまで、私も見落としていた内容でした。)

『同志社新聞』1927年3月12日 第7号 4ページ。
ダンサニーの「旅籠屋はたごやの一夜」(一幕)……という風に言及が確認できるものの、
劇評はシュニッツラーの「結婚式の朝」に集中している。

そして、上掲の過去記事で紹介しましたが、野淵昶はアイルランドのアベイ座に関する雑誌の寄稿において、ダンセイニに言及しています。

……最近にはマデン(M. C. Madden)、ギュナン(John Guinan)等の新進作家を始め、閨秀作家オリアリ〔Margaret O'Leary〕が台頭して来た。まさにシング、エーツ、ダンセニ、グレゴリ夫人の活動した第一期黄金時代以来の盛観だ。

野淵昶「アベイ座をめぐる劇作家群」
『劇場』一月号(昭和六年一月一日発行)77ページ
〔〕内の内容は筆者による追加。

1930年頃のアベイ座の勢いを説明する内容です。そして、最初の黄金期に貢献した戯曲家の中にダンセイニもいるということが、当時のアイルランド演劇の研究者の共通認識として存在するのが分かる一文にもなっています。

続けて野淵はもう一度だけ、ダンセイニに言及します。ダンセイニ作品の読者のほとんど全員が感じるように、野淵昶の目に、ダンセイニは神秘的な作品を残す人物であると映っていたようです。

……農業国の愛蘭に農民劇が主潮をしめるのも、ケルトの詩的な神秘的な伝統がエーツやダンセニに多くの戯曲のような神秘劇、怪奇劇に表われるのも、アイリッシュ・ジョークで聞えた世界的皮肉の天分がシング、オケシィ、シールズ〔George Shiels〕の喜悲劇或は喜劇に形をかるのも、革命劇、愛国劇が独立運動の前後に続出したのも、当然のことではないだろうか?

野淵昶「アベイ座をめぐる劇作家群」
『劇場』一月号(昭和六年一月一日発行)77ページ
〔〕内の内容は筆者による追加。


諸劇団

エラン・ヴィタール小劇場以外にも、戦前の京都でダンセイニ劇を舞台にあげた劇団を確認できています。数としてはわずかですが、ここに紹介いたしましょう。

民衆歌舞劇団

  • 1922年4月15日~20日 京都座
    「忘れて来たシルクハット」

現在のMOVIX京都北館にあたる場所に建っていた京都座で行なわれたこちらの公演では、三幕物の「啞の旅行」、一幕物の舞踊「森の誘惑」、一幕物の無言詩「死に面して」も上演されました。未確認ですが、劇評は『京都日出新聞』に存在しています。(正直なところ、「忘れて来たシルクハット」以外の作品も気になります。)

アウダシヤ小劇場

  • 1927年9月17日 岡崎公会堂
    「光の門」

この劇団は、同年9月16日の『大阪朝日新聞(京都滋賀版)』によると、旧制の第三高等学校(京都大学総合人間学部の前身)出身の京都帝国大学の学生によって組織された有志との学生から成るグループであるとのことです。初の公演は、ダンセイニの「光の門」のみならず、菊池寛の「順番」、グスタフ・ウィードの「ねんねの旅籠」をも含んでいました。しかし、この記事の主な参考文献である八木書店の『近代歌舞伎年表 京都篇』を丹念に見ても、この公演以外の公演情報が見当たりません。

1920年代の京都では、短命に終わる新劇グループ(他の例で言えば、大谷大学の学生たちが組織した純谺会じゅんがかいがあります)が多く、10年以上にわたって活動したエラン・ヴィタール小劇場は唯一の例外的存在でした。

劇団名不明

  • 1932年12月10日 京都帝国大学基督教青年会館
    「忘れてきたシルクハット」

こちらの劇の上演は、現在は京都大学基督教青年会館と呼ばれる施設で、クリスマスの催しとして実施されたものです。同じくアイルランドの戯曲家として名高いグレゴリー夫人の作品「旅人」も上演されました。

以下にリンクを貼っている『京都帝國大學新聞』第173號の最初のページには、「忘れてきたシルクハット」の舞台で演じる劇団員たちの写真が載っているだけでなく、京都帝国大学理学部教授の山本一清をはじめとした300名が集まったということが紹介されてもいます。当時の学生の多くに読まれ、きっと彼らの目を引いたことでしょう。


おまけ(?)

日本国内でのアイルランド演劇の上演例の数は1930年代に入ると、新劇運動の斜陽化とプロレタリア演劇の発展によって少なくなっていきます(それゆえ、上掲のクリスマスの催しでの上演例は実を言うと稀有な例です)。

しかしながら、1938年5月2日の『京都日出新聞』に目を通すと、ダンセイニ愛好家にとっては少し気になる内容の記事が見つかります。以下に引用します。

五月の花月劇場は一日初日で”一ヶ所で数ヶ所分を娯しめる”本領を発揮した吉本ならではの豪華多彩の番組で開演、即ち公表に講演記録をのこして戸田三樂加盟田宮貞樂劇、新喜劇……(中略)……更に呼物は曲浪のアトラクションとして待望の名調人気随一の廣澤虎造が名曲を連日総ざらえで特別出演という無敵番組である。その合同プロは次の如く。尚廣澤虎造は一日より七日間限りであると
 第一喜劇「神になったルンペン」一幕……

1938年5月2日『京都日出新聞』
「廣澤虎造の浪曲 貞楽劇新喜劇舞踊 一日からの花月劇場」7ページ

この記事で最注目に値するのは、一幕物の喜劇「神になったルンペン」です。具体的にどのような内容の劇であるかは分かりませんが、そのタイトルから推察すると、神の像に扮して食べ物を得る物乞いたちを主要登場人物に据えたダンセイニの「山の神々」を彷彿とさせます。

「山の神々」は二幕物で、幕数は異なりますが、日本の喜劇のパイオニア的存在である田宮貞楽がこの戯曲を参考にした可能性もあるでしょう。(民衆歌舞劇団の事例のように、こちらも更なる研究が必要です。)


まとめ

2020年10月の某日、京都府立図書館の近くにて。

上で取り上げたものを総合すると、戦前の京都におけるダンセイニ劇の上演第一号は、1921年12月15日・16日のエラン・ヴィタール小劇場による「忘れてきたシルクハット」で、ラストを確実に飾ったのは京都帝国大学基督教青年会館における1932年12月10日の同戯曲の上演でした。

アイルランド演劇というもう少し広い分類にすると、その年代の幅は広がります(主にイェイツ、バーナード・ショー、グレゴリー夫人、J・M・シングといった戯曲家たち)。そのバージョンの記事は、私の気が向けば作成してみたく思います。

最後まで読んで下さった皆様に、御礼を申し上げます。ありがとうございます。


番外編的な追記:
こちらの記事のダンセイニ的内容とは無関係ですが、『近代歌舞伎年表 京都篇』の別巻を見返したところ、第二次世界大戦の日本国内の過酷な時局を容易に想像させる「頑張れ! 集配婆さん」(茂林寺文福・館直志合作)という劇が上演されていたのを思い出せました。

1943年の2月末から3月中旬まで松竹家庭劇の一環で南座で上演されたこの作品は、集配人の孫を出征させたお婆さんが孫に代わって集配人となって頑張って闇取引の炭屋を改心させる内容だそうです。内容的に気にはなる作品です(ちょっと調べてみたら、NHKの連続テレビ小説の『おちょやん』76話で取り上げられていたようです。盲点でした)。

2019年3月の某日、こちらも京都府立図書館からそう遠くないところにて。


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