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ロード・ダンセイニ VS. 広告メディア ~幻想作家と現実との対立~

皆様、ごきげんよう。弾青娥だんせいがです。

今の生活において広告を意識的に、また無意識的に様々なところで目にすることかと思います。そうした広告には、「おっ、何か面白そうだ」と注目したり、「よく分からないことが書いてあるなあ」とだけ思って無関心であしらったりするでしょう。

ウェブ上ではトラッキングにより、特定の個人に適したコンテンツの広告が表示されるようになっています(例えば「書籍」をキーワード検索したら、それ以後に書籍関連の広告を多く見かけるような具合です)。

近頃のiPhoneのコマーシャルでは、トラッキングによって利用されるプライバシー情報の保護の大切さが訴えられ、直接的ではないものの、広告のあり方に疑問が投げかけられました。(個人的に好きなCMです。)

「おいおい、ダンセイニのダの字が出ていないじゃないか!」とお思いになった方も、そうお思いになっていない方も……お待たせいたしました。お題に入ります。

今回の記事は、ファンタジー作家の中でも屈指の存在であるロード・ダンセイニ(以下、特記ない限りダンセイニ)が、どのような姿勢で広告メディア(特に新聞、広告看板)に接していたか、を取り上げます。

それでは早速、参りましょう。

※引用した文は、訳者名を明記したものを除いて、私による和訳です。
※〔〕内の事項は私が加筆した内容です。



ダンセイニ VS. 広告メディア

ロード・ダンセイニ(1878-1957)

ダンセイニの広告メディアに対する姿勢は幼少期から明確に決まっていました。それは、否定的なものです。はじめに、新聞に対する姿勢から見ていきます。


VS. 新聞

フランク・ハリス(1855-1931)

新聞に対して否定的な接し方になった契機については、作家のフランク・ハリスの手紙に対して書いた返事のなかで触れられています。ダンセイニは自らの特徴的な文体の由来に触れつつ、自らの新聞との関わり方を語っています。1912年11月3日付の書簡です。

私の文体のほぼ全てがあるのは、離婚裁判所の議事録のおかげでしょう。こうしたものがなければ、母は通学前の私に新聞を読ませたかもしれません。母は決してそうしませんでした。私はグリム兄弟の作品を読みはじめ、次にアンデルセンの作品を読むようになりました。薄明かりが見える夕暮れに読んだ記憶があります。私が育ったケント〔英仏海峡に面した、ロンドンから南東の地域〕の家の部屋という部屋の窓はどれも、日没の見える方向を臨んでいました。日没に関する事実はありませんし、そういったものは国会の報告書にいっさい年代順で載せられていません。そのような事実を書いた広告もありません。

Contemporary Portraits Second Series (1919) 148ページ

この手紙から、母の教育方針によりダンセイニが幼少期から新聞を読まないようになったということが分かります。そのスタンスは晩年になっても貫かれました。それが確かめられる例は、ヘーゼル・リトルフィールド・スミス著のLord Dunsany: King of Dreamsにあります。

Lord Dunsany: King of Dreams(1959年)の書影

亡くなる4年前の1953年にアメリカ西海岸のカリフォルニア州を訪れたダンセイニのことをつまびらかに記録した本書には、著者による的確な分析も交えて、ダンセイニの新聞に対する見方が記されています。

 毎日、『ロサンゼルス・タイムズ』が朝食の食卓の近くのはっきり見えるところに置かれていました。ロード・ダンセイニは一瞥も投げずに無視しました。人々の興味を引かせる犯罪や政情危機を報じる記事のことで、自身の心を充たしたくなかったのです。興趣のない世界の人間関係に没入すれば、精神が切望するものに対する人の感覚と、人の霊魂が感じられる想像力の高揚とが鈍くなるのが大抵であると、氏は分かっていました。とはいっても、政界で起きていることを鋭く見通しており、話を交わす際、遅鈍な外交官や権力を得ようとする急進勢力の愚かな行いを辛辣に責めとがめる意見が、氏の口から飛び出すこともありました。

Lord Dunsany: King of Dreams 47ページ

このように、晩年に入っても新聞に対するダンセイニの見方が変わっていないことが認められます。また、世の煩わしさを感じさせる記事に接しないライフスタイルが、ダンセイニの幻想的な物語創造の支えになっているのを示してもいます。

新聞に目を通さないとはいえ、上掲の引用にあるように、ダンセイニはしっかりと政治のことに通じていました。その理由のひとつには、切り抜き記事を送ってもらうことがありました。そのことも含む、ヘーゼル・リトルフィールド・スミスの文をここに紹介します。

 ダンセイニはある人物から、自分が1941年に亡くなったと掲載したニューヨークの新聞の切り抜き記事を送られました〔実際に亡くなったのは1957年〕。氏は立腹しましたが、こう仰いました。「この報道をしたのが僅か一紙であるのは、どれほど幸運なことでしょうか。すべての新聞がそう報じていたら、その報道を真実だと受け止めざるを得なかったでしょう。誰にも頼らず、報道機関の異口同音な評決に異を唱える私は何者になるのでしょうか? まだ命ある身として物語を執筆したり、カリフォルニアに足を運んだりしたいと思っているのです」

Lord Dunsany: King of Dreams 50-51ページ

とんでもない誤報を載せた新聞に対して、ダンセイニは怒りを見せたものの、はっきりとした罵詈雑言を浴びせようとしなかったのは貴族の品格がなせるものだったのでしょうか。


VS. 広告看板

そして、ダンセイニは新聞のみならず、広告(看板)への嫌悪もはっきり示しています。これにまつわるエピソードも、1953年のアメリカ西海岸旅行の際に起きています。

 3月29日は金色の日光に照らされる朝でした。私たちがパロマー〔ロサンゼルスから南東の地域〕に向けて出発する際、ロード・ダンセイニは少年のように苛立ちながらも待ちきれない様子でした。ハンドルをとったスミス博士〔ヘーゼル・リトルフィールド・スミスの夫〕は、海辺の町をとにかく急いで抜けるように運転しました。ロサンゼルス一帯のどこに行くにしてもダンセイニを苦しめる神出鬼没の不快な広告板群からなるべく早く離れるためでした20~30マイル〔約32km~48km〕の並木道だけがパロス・ベルデス半島からの脱出口です。しかし、ダンセイニの鋭敏な目は、けばけばしくて目に余る広告の絵の細部という細部をとらえました。氏は、品のない存在に対する嫌悪をぶつぶつと口にしました。このように不平を言いました。「こういったものは潜在意識に沈んでいきます。人間の思考を最も低い水準へと引きずるのです。この忌々しい影響からは逃れられないでしょう」
 氏の言葉に反論の余地はありませんでした。けれども、朝のドライブを快くするものではありませんでした。……

Lord Dunsany: King of Dreams 66-67ページ

広告を嫌うわけは引用内で「人間の思考を最も低い水準へと引きずる」と語られていますが、1918年にボストンの出版社から発表されたダンセイニの著書Nowadaysには、似たような見解および理由が確認されます。

……そして、あらゆる恐怖の中で最後に挙げるならば、強欲から生まれてはアメリカにて繁殖した広告における言葉遣いです。こうしたものは全て精神を腐らせて、純然たる真実が偽りであるように見えるようにして、人々は詩人の声をもはや聞かなくなります。……

Nowadays (1918) 18ページ

広告にまつわる話は、ダンセイニが1915年に出版した『五十一話集』と、1944年に著した2冊目の自伝While The Sirens Sleptでも認められます。

Fifty-One Tales (1915)
イギリス版初版の表紙

五十一話集』所収の短編「成れの果て(What We Have Come to)」は、丘陵の彼方にそびえる聖堂の尖塔群を見た広告屋の嘆きを記しています。

「ああ、あれが『おいしさ抜群、栄養満点、スープに入れておためしください、ご婦人方も大絶賛の〈ビーフォ〉です』の広告だったら、いうことないんだがなあ」

中野善夫 安野玲 吉村満美子(訳)『最後の夢の物語』「成れの果て」98ページ

ダンセイニはこの話で皮肉をこめて、広告屋の賤しい野望を書いています。日本で例えるなら、京都の東寺、奈良の興福寺の五重塔に広告板やアドバルーンを設置されるようなことでしょうか(このようなことが起こってしまったら、たまったものではありません)。伝統的な建造物の価値や威厳を台無しにする広告屋の企みの描写から、広告を忌避するダンセイニの姿勢が見えてきます。

さて、もうひとつの例である、ダンセイニの2冊目の自伝While The Sirens Sleptにおいて、注目したい内容は次の通りです。

車に乗っていた時に、俗世の財産のすべてを持った修行者ファキールが広告板のそばを歩いて通りすぎるのを見ました。その財産とは、修行者の半身を覆う布切れ、真鍮の鉢と一本の長い棒切れでした。一方、その広告板には「うがい薬マウスウォッショは必携品です」とはっきり書いてありました。この満足した者が視界にいる限り、あのうがい薬マウスウォッショが本当に必要なのか、ただのうがい薬でも十分ではないのか、という風に疑わしく思われました。

While The Sirens Slept (1944) 121ページ

以上の記録は、ダンセイニ自身が1929年に旅したインドを回想したものです。西部の大都市であるボンベイ(ムンバイ)に着いてから間もない頃のことですが、ダンセイニの広告に対する疑問が場所を問わずに炸裂しているのが分かりますし、短編の「成れの果て」に似た広告批判の精神が見えます。


最後に

日本に暮らす者からすれば、ニューヨークのタイムズスクエアのビルボード群は、一度は見てみたい圧巻の景色です。しかし、もしもこの現代にダンセイニが蘇ったとすれば、上記で説明したように広告メディアを好まぬ貴族はこの広告群をその目に1秒の刹那でも収めるのを拒むでしょう。現代の東京、横浜、名古屋、大阪、福岡などの都市の光景も、ダンセイニを簡単に幻滅させるでしょう。

ダンセイニは、小説家ジョージ・メレディスの『エゴイスト』の序文でその著者を「画家にたとえるならば、突如として西方を向きわれわれの機械に倣って自らの指をその一つに引っかけてしまうまで鳥、花、虫、山や海の大変近くに暮らした芸術家のうちに数えられる、日本の画家にたとえよう」と述べるように、明治時代の文明開化前の日本、つまり葛飾北斎や歌川広重といった画家が活躍した江戸時代までの日本が好ましく映ったようです。

京都・嵐山の渡月橋(2016年10月撮影)

ゆえに、伝統的な雰囲気を残す京都、奈良、日光、川越、白川郷、倉敷美観地区のようなところは、全体的にとはいかなくとも、ダンセイニに不満をもたらさない場所であると言えそうです。(ダンセイニは生前、日本を訪れることはありませんでしたが、19世紀末、または20世紀初頭に日本へ足を運んでいれば、ダンセイニも日本を楽しむことができたでしょう。)

こちらの記事が、ダンセイニの人となりを深く知る一助となれば幸いです。また、日常にあふれる広告に対する考えをちょっと改めてみるきっかけにもなれば、筆者としては嬉しい限りです。

最後まで読んで下さった方々に御礼を申し上げます。ありがとうございます。



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