シドニー・サイム ~炭鉱から画壇へ躍り出て、アイルランドの幻想作家ロード・ダンセイニを支えた芸術の匠~
皆様、ごきげんよう。弾青娥です。
雑誌『少女の友』の表紙が中原淳一の可憐な少女に彩られ、ライトノベルの「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズの登場人物がいとうのいぢ氏によって描かれる・・・・・・というように、「あの本といえば、あの画家」という一種の方程式が成り立ちます。
さて、アイルランドを代表するファンタジー作家ロード・ダンセイニの場合、この方程式はシドニー・サイムとで完成します。
戦後のダンセイニ人気の基礎を築いた荒俣宏氏にS・H・シームとしても紹介されたこの画家ですが、日本語で経歴を詳しくまとめた記事の数はまだまだ少ないです。
そこで、本記事では、ダンセイニ作品を読むと絵を見かけるこの画家(以下、特筆ない限りサイム)をフィーチャーいたします。
※引用した文は、私による和訳です。
※〔〕内の内容は、私による追記事項です。
※以下の記事本文内では、人物名を敬称略にしています。
若年時代
サイムは、1865年にマンチェスターのヒューム地区に生まれます。一家は爪に火を点すような生活を送り、サイムは子どもの頃に炭鉱で5年間働くこともありました。その際、炭坑内で生き埋め寸前になる危機も味わいます。
画業と縁が無いといえる炭鉱での日々であるとはいえ、サイムは小鬼や悪魔の絵を炭坑の壁に刻んで描きました。また、芸術活動に充てられる時間があったとしても、深夜と早朝しかありませんでした。画家としても稼ぎ始めたころには、日の出に照らされる早朝の村の教会を描いた作品を仕上げ、最初のパトロンになった人物に20シリングの額で購入されました(1880年初頭の基準では悪くない額でした)。
サイムは繊維商人、パン屋、靴直し屋、看板屋の職に就くこともありましたが、看板屋としては自営が上手くいきます(ロンドンの南西にあるワープルズドンのシドニー・サイム・ギャラリーには、看板の作品もあります)。この時の収入のおかげもあり、1883年にリヴァプール美術学校への入学が叶います。
学校生活は、輝かしい功績をサイムにもたらします。1885年、20歳のサイムは第2学年の時に「フリーハンド・ドローイング」と「モデル・ドローイング」の部で賞を取ります。また、同校から提出された作品のなかで最も優れているとのことから、1888年に美術コンクールでの受賞も含め、数々の賞を手にしました。
ロンドン時代
学業を終えたサイムは1893年、ロンドンへ移住します。雑誌や書籍に挿絵を描くのが生計を立てるのに最善だと決心がついていました。
オーブリー・ビアズリー、フィル・メイといった画家が活躍する中で、サイムも活躍を見せます。『イラストレイテド・ロンドン・ニュース』、『ペル・メル・マガジン』、『グラフィック』、『ストランド・マガジン』、『アイドラー』を含む数々の名だたる定期刊行物に作品を提供しました。
1896年、サイムは英国王立美術家協会の会員の地位を得ます。この年から1898年までで残した作品では、演劇人を描いた戯画の比重が大きくなります。そのなかでサイムは、名優のダン・レーノと、アルフォンス・ミュシャの絵のモデルになったサラ・ベルナールも描きました。
1897年には、サイムの奇妙さが顕著な作品が見られるようになります。サイムがオーナー兼編集者を務めた短命な雑誌Eurekaに、「The Felon Flower(瘭疽花)」という気味の悪い挿絵を残しました。(同作品は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の以下リンクから閲覧可能です。)
1899年になるとサイムは、作品の寄稿先の一つである『アイドラー』を買収し、編集陣に加わって再デザインに着手しました。この取り組みは1901年に失敗に終わってしまいますが、サイムの事業家としての顔が垣間見えます。
ダンセイニとのタッグ
ダンセイニと後年にタッグを組む前兆は、1899年5月の『ペル・メル・マガジン』に掲載されたThe Mountains of the Moonという作品に現れます。(下記のリンクから、ダンセイニのファンタジー世界にマッチしそうな作風の絵を確認することができます。)
そして、1904年にサイムはダンセイニと初めての出会いを果たします。ギュスターヴ・ドレのような挿絵画家を必要としていたダンセイニは、ドレのような画風をサイムに見出していました。
1905年に出版されたダンセイニの文壇デビュー作『ペガーナの神々』の挿絵制作時には、サイムは自らの思いのままに描くように任されました。
サイムは、『ペガーナの神々』から30年以上もの間、ダンセイニの物語の挿絵を担当することになりました。サイムに対するダンセイニの信頼は厚く、1912年の短編集The Book of Wonder(『驚異の書』)では、完成したサイムの挿絵にマッチした物語を書き上げるという手法をダンセイニがとるほどでした。
サイムはプライベートで、画家である妻のメアリー(1898年に出会った女性)と一緒に、ダブリンの北西に位置するダンセイニ城に何度も招かれました。
サイムは、ダンセイニ以外の作家にも貢献しました。特筆すべき例は、怪奇小説の大家として名を馳せたアーサー・マッケンです。
アーサー・マッケンによる1906年の発表作The House of Souls(『魂の家』)で、サイムはカバーの装丁を担当します。また、翌年のThe Hill of Dreams(『夢の丘』)には口絵を仕上げました。
サイムは批評家のハンネン・スワッファーから次のように、絶賛をともなって紹介されます。
一方、サイムは1907年、1924年、1927年に、展覧会を開きました。この芸術家にとって展覧会は好ましいものではなかったようです。ダンセイニと並ぶパトロンであった第8代ハワード・ド・ウォルデン男爵に宛てた手紙で、こう記しています。
展覧会を開催することにサイムが嫌悪感を抱いていたと断定ができてしまいます。しかし、1924年の展覧会は成功をおさめていたようで、ダンセイニ男爵夫人のベアトリスが自身の日記にこう記しています。
また、その同じ展覧会を「特別優れた個性と非常に大きな能力を持つ芸術家の才能の実演場である。サイム氏は驚くべき想像力に富んでいる」と評する雑誌もあり、イベントの成功ぶりを物語っています。
第一次世界大戦の影響
1914年の6月はサイムにとって何もかもが上手くいく時期でした。ハワード男爵の後援を受けて、サイムは作曲家のジョセフ・ホルブルックと熱心な創作活動に励みます。好調ぶりが認められるその頃と、そこからの転落も認められる状況を、シドニー・サイム・ギャラリーから刊行された書籍The Art of Sidney H. Simeから引用しましょう。
1914年7月28日に勃発した第一次世界大戦は、サイムに相当なショックをもたらします。自らの知る人々をもこの戦争で亡くしてしまったためです。加えて、サイムが第一次世界大戦の休戦記念日を迎えるのは十二指腸潰瘍で苦しむさなかのことでした。時間をかけ、サイムは体調とメンタルを何とか回復させることに成功します。
晩年と最期
晩年のサイムは隠遁がちの生活を送るようになります。非常に気難しいという評判のせいで、美術商にとってサイムが近寄りがたい存在だったのも災いしました。書籍The Art of Sidney H. Simeで指摘される内容を借りれば、1890年代は芸術家が個人で活動する時代で、20世紀は芸術運動に加わることで活発に活動を行なう時代でした。そのような時代の推移はサイムにとって気に入らないことでした。それも、サイムが絵画制作の数を減らすことに拍車をかけてしまいます。
それでも、古くから付き合いのあるダンセイニやハワード男爵といった人物はサイムをサポートし続けます。とりわけダンセイニは、一定の収入の無いまま還暦を迎えそうなサイムに年金を下ろせないかと依頼する書簡を権威ある美術史家のケネス・クラークに送っているほどです。
1941年の5月22日、イギリス空軍とドイツ空軍の戦いが熾烈を極めるなか、サイムはこの世を去ります。ダンセイニは未亡人となったメアリー・サイムに次のような文を含む手紙をしたためました。
ダンセイニは、3冊目および最後の自伝であるThe Sirens Wake(1945年)でもこの画家を称えています。
サイムに対する評判はこの芸術家の死から何年もの間ずっと衰えてしまいました。けれども、作品は妻のメアリーの尽力により保管され、その遺志を継いだ人々の尽力もあり、その多くを今もイングランド南東部のサリー州に位置するシドニー・サイム・ギャラリーで見ることができます。
そして、トールキンの『ホビットの冒険』や『指輪物語』のような作品のヒットに伴うファンタジー人気の再興のおかげで、ダンセイニの作品が顧みられ、それに付随してサイムの絵画作品への関心も再興していきます。
日本との関わり
サイムは、ダンセイニと同様に日本の影響を受けた人物でもあります。1904年に購入したコテージ内のアトリエの壁面は、フランシスコ・デ・ゴヤ、ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージの版画に加え、黒檀の額縁で飾られた葛飾北斎と歌川広重の版画でも飾られていました。シドニー・サイム・ギャラリー所蔵の大きな油絵のThe Waveは、同ギャラリーが指摘するように、北斎の画風との強い類似性を見せています。
波の描き方で言うと、上掲の「スリッド」の絵の下方に見える波も、北斎の『富嶽三十六景』のあの有名な「神奈川沖浪裏」から影響を受けたものだと推測されます。
また、In Faery Land Forlorn: or Maelstromという作品の波の描き方に対しても、同様の指摘ができるでしょう。
サイムにおける日本的影響を語るのであれば、シドニー・サイム・ギャラリーの動画も要チェックでしょう。4分33秒のところで、うちわを両手に持った着物姿の女性のようなスケッチがほんの一瞬だけ映ります。
(様々なサイムの作品を見られる動画ですので、眼福にあずかることができます。)
それから、1999年の日本です。サイムのユニークな受容例が1件ばかり現れます――ロックバンドD'ERLANGERのボーカリストkyoがリリースしたZOOというアルバムのジャケットに、サイムのイラストが採用されました。(ファンがプレゼントした「ビアズリーと世紀末展」のカタログに載っていた作品を通じて、kyoはサイムを知るに至ったとのことです。)
最後に
近年のダンセイニの認知度は、この作家から多大なる影響を受けたH・P・ラヴクラフトの愛好家のおかげもあり保たれつつあります。しかし、サイムの認知度がダンセイニほどになかなかの水準に保たれているとは言いがたい現状です。
もし、シドニー・サイムの画業についてご関心を持つようになりましたら、84枚もの作品を収めたSidney Sime: Master of the Mysterious、シドニー・サイム・ギャラリーから出版されたThe Art of Sidney H. Sime - Artist and Philosopherのご購入をオススメいたします。後者については、同ギャラリーのホームページのショップから購入可能です。
シドニー・サイム・ギャラリー(Sidney Sime Gallery)
https://sidneysimegallery.org.uk/
これらの画集以外でサイムの絵を見られるのは、和書で言いますと主に、河出文庫の『世界の涯の物語』、『夢見る人の物語』、『時と神々の物語』、『最後の夢の物語』(サイムの作品は表紙のみで確認できます)と、早川書房の『ペガーナの神々』です。入手のしやすさで判断すれば、最後に挙げた『ペガーナの神々』が最も手にしやすいでしょう。
今回の記事の完成にいたるまでには、Sidney Sime: Master of the MysteriousとThe Art of Sidney H. Sime - Artist and Philosopherの2冊が主要な役目を果たしてくれました。kyoのソロアルバムにサイムの絵が使われていた件については、ダンセイニ研究誌PEGANA LOSTを主宰する未谷おと氏から情報提供をいただきました。この場でも感謝いたします。
こちらの記事が、サイムの再認知および再評価が進むことへの寄与に少しでもなれば幸いです。サイムとその素晴らしき画業にもっと光が当たらんことを。
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