不合理と非論理的なヒトを許すってこと
あんたは誰かの言葉ってやつについて思いを馳せることがあるかい?
ちょいちょい読ませてもらっているshogoさんの記事にちょっとしびれる記事があったんだよね。
マザー・テレサと言えば、誰もが知る聖人と扱われつつ、問題のある人物という評価をされることもあるヒトだ。
ただ、shogoさんの紹介してくれたマザー・テレサの言葉は俺の肌を粟立たせるくらいに感情に訴えかけてくる言葉だったと思うんだ。
今回は、その言葉を受け止めてみようって言うちっと背伸びをしてみようって回だ。
ちっと、オッサンの背伸びに付き合ってくれよな。
不合理と非論理的であること
shogoさんが紹介してくれたマザーテレサさんの言葉で地味に俺に響いた言葉があった。
これさ。
たぶん、俺は許せてない。
自己中心的なことはなんとなく許せていることがあるかもしれないけれど、不合理と非論理的なことはどうしても許せてない気がする。
なぜって?
不合理と非論理的な言動ってのは、周りにいるいろんな意味での弱者を攻撃することになると思うから。
自己中心的なのは、ある意味どうしようもない気がするんだよ。
それって感情の問題だからね。
自己中心的な感じ方ってのは本人にはどうしようもないことだと思うんだよ。
だからこそ、マザーテレサさんの許しなさいって言葉はすんなり腑に落ちる。
でも不合理と非論理的ってのは感情じゃなくて理性の話だよな。
理性を履行しようとしないヒトを許せとマザーテレサさんは言ったってことなんだよな。
それ、ホントに許していいやつなのか?
合理的、論理的である能力
もうちっと考えてみると、もしかするとマザーテレサさんは合理的、論理的であることが出来るヒトと出来ないヒトがいるって言いたかったのかな?
たしかにどんなヒトであっても100%ロジカルに考えることなんて出来ない。
本人にとってロジカルだと感じることが出来ていたとしても、客観的な第三者からみてそのロジックに穴が有るなんてのは日常的に起きることだってのはそらそうだってやつだよな。
だとすればだよ。
マザーテレサさんはこう言いたかったのか?
ミスを許しなさい。
それならわかる。
わかるけれど、無茶言うなって言いたくもなる。
ミスを許すということ
なに?何が無茶なんだって?
だって考えても見ろって。
すべてのミスが許される状況なら、俺たちはどうやって約束なんてことが出来るってんだ?
俺たちの生活ってのはこの約束の塊だ。
仕事だってそう。
家族の生活だってそう。
友人との関係だって約束の塊だ。
受けた仕事の納期に間に合わなかったりしたときに「間に合いませんでしたテヘペロ」って話になったらぜってーに次から仕事もらえないべよ。
そう考えてみると、不合理と非論理的であることを今のヒトの世界では許すことが出来ない仕組みになっているって思うんだよな。
じゃあ、なんでマザーテレサさんはそんなことを許せって言ったのか?
こっからは完全に俺の想像よ?
たぶん、マザーテレサさんは不合理や非論理的なことをしてしまったヒトに負の感情を向けるんじゃなくて、起きてしまったことに対して一緒になって解決するように動きなさいって言いたかったのかな。
ヒトが誰しも完璧じゃない以上、絶対に不合理や非論理的と思われることを引き起こしちまう。
それを引き起こしたヒトを攻め立てている時間があるなら、その時間を使って解決を模索しなさいってことなのかな。
罪を憎んでヒトを憎まず。
そう言うことなのかな。
それならなんとなく正しいっぽい気がする。
でも、それってめちゃくちゃ難易度高いよな。
だって、すべてのヒトと責任を共有しろって言われているようなもんだもんよ。
少なくとも、今の俺にはそんな胆力はない。
ってか、マザーテレサさんを含めてそんなことが出来るヒトなんていない気がする。
それでもマザーテレサさんは「許せ」と言った。
なあ、あんたはどう思う?
マザーテレサさんはなぜ「許せ」と言ったんだろう?