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メダルをかじる行為と俺たちの意識

あんたも名古屋市長の河村市長が東京オリンピック2020ソフトボール日本代表の後藤希友さんの金メダルをかじったって報道を見ているかい?

よく金メダルを受賞した本人がかじるって姿は報道されているものの、俺としては見せてもらったヒトがかじるって姿は見たことなかったんだよな。

どうやら、この金メダル交換って運びになるらしい。

どうも後藤さん本人は交換を求めていないんだけれども、周りがワイノワイノ騒ぎ立てているので、そう言う流れになったようだ。

ちなみに交換にかかる費用については河村市長に請求を回すって方針からどうもIOC負担になるって方針に変わったみたいだ。

今回はこのヒトの金メダルをかじるって行為について考えてみる回だ。

ちょっち想像力の翼を羽ばたかせてみようぜ。

金メダルをかじるという動機

そもそも、金メダルってなんで噛まれるんだろう?

そう思って調べてみると、どうも金貨での貨幣流通が主流だった頃に本当に金で出来た金貨なのかを確かめるために金貨をかじるって言う行為が行われていたって歴史があるらしい。

でもそもそも金メダルは純金製ってわけじゃないから、かじることで本物を立証する意味はないし、そもそも「本物」ってなんだって話になる。

どうもオリンピアンのことを撮影するカメラマンが出来るだけ顔とメダルを近づけさせるために「いっそのことかんじゃいましょう」って言ったのが始まりだとか。

要するにマスコミが生み出した象徴的なシーンとして金メダルをかじるって行為が求められたってのが実態らしい。

まあ、そらそうだよな。
選手はみんな血の滲むような訓練を経由して、その成果の象徴としてのメダルをわざわざ傷がつくかもしれない行為をみずからする意味なんてないもんな。

河村市長がメダルをかじる意味

その前提で河村市長がメダルをかじった意味ってなんなんだろう?

要するにメダルをかじるのはマスコミに向けたパフォーマンスなわけだよな?
そうだとすれば、河村市長の動機は「ウケ狙い」って事になる。

つまりは、河村市長のサービス精神による行為ってわけだ。

だってよ?
ちょっと想像してみようぜ。
もしあんたが金メダルを見せてもらって、それを持っていいですよって言われたときに、そのメダルをかじる勇気あるか?
ねえべ?

もちろん河村市長が金メダルをかじったのは俺としても「どうなのよ?」って思うわけだけれども、その根っこにあるのはサービス精神以外には想像がつかないんだよな。

問題は、そのウケ狙いのセンスが壊滅的にメダリストやその周囲のサポートをするヒトたちと乖離していたってことなんだよな。

首長が市民感覚と乖離している悲劇

この一般人との感覚の乖離が市長という立場のヒトに起きているってのは結構由々しき問題だと思うんだ。

ヒトってのはその周囲にいるヒトによってメチャクチャ影響を受けるものだ。

それは首長についても同じことが言える。
市長や区長、知事といった地方自治体のトップという立場は、場合によったら衆議院議員よりも強大な権力の集中が起きる。

普通にやっていたら、周りはイエスマンばかりの状況が出来ちまうはずだ。

イエスマンで周りを固めるってのがデメリットしかないことはわかっているはずなのに、それを防げないのはなぜか?
俺たち選挙権を持ったヒトが政治に向けて「見ている」って姿勢を表現していないからってことなんじゃないだろうか?

見ているって事実を感じることができれば、自分の感覚を多様性が広がっている世界に向けることが出来るはずだと思うんだよね。

言い換えるのであれば、俺たちの無関心が政治家たちの孤独を作り出しているって意味なのかもしれない。

おかしな話だよな。
民主主義って言う一人ひとりの意見が政治家に届いて初めて政治を動かすって仕組みのはずなのに、俺たちの意見は全然政治家に届く状況にない。

それを象徴する出来事としてこの河村市長がメダルをかじったって事件が起きたってことだとすると、ちょっと思うところがあるじゃんか。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはどうやって政治家たちに俺たちの感覚を伝えていけば良いんだろう?

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