節目に生き方を考える
あんたもなんかの節目にものを考えるってことあるかい?
昨日は俺の誕生日だったんだけれども、この歳になるとさすがに考えちまうんだよ。
「俺はどうやって死ぬんだろう」ってさ。
その問は逆に言えばこうなる。
「俺はこれまでどうやって生きてきて、これからどうやって生きていくのか」
今回は節目のタイミングで自分がどうなりたいのかについて整理してみる回だ。
まあ、オッサンの戯言にちっと付き合ってくれよな。
「そうあれかし」とヒトは願い続けてきた
実は知らなかったんだけれど「そうあれかし」ってAmen(アーメン、エイメン)の日本語訳なんだってな。
そう考えると、ヒトはまあまあな期間を「そうあれかし」と願い続けてきたってことになるよな。
その願いは俺たちを縛り付け、そして前に進ませ続けてきた。
縛り付けているのに前にすすめるって意味がわからないって?
例えば俺たちは地球の重力に「縛り付け」られている。
ところがこの重力が有るおかげで、俺たちは歩いて移動することが出来るし、布団に入って寝ることが出来る。
こう言うふうに俺たちは制約を前提として前に進み続けているってわけだ。
では俺自身に課せられている制約とは何か?
それはあり家族であり仲間であり敵なんだろう。
俺のスキなセリフにこんなやつがある。
「足手まといがいると強くなるってことね」
出典:HUNTER×HUNTER
これはHUNTER×HUNTERの幻影旅団メンバーであるノブナガとウヴォーギンの関係をシズクがこっぴどく言ったセリフだ。
これってノブナガがひどい言われようだって思うけれども、自分に当てはめてみると、自分が誰かの足手まといになることで、誰かが力を発揮するようなことや、逆に誰かに頼られて力を発揮することって結構普通にあることだと思うんだよね。
つまり俺たちは周囲のヒトたちとの関係性の中で生かし生かされているってわけだ。
もしくは「そうあれかし」と願い続けているのかもしれない。
noteを書き続ける理由
noteを書き続ける理由については前にも一度書いてみている。
このnoteにも書いたとおり、「俺はこのnoteを読んでくれるあんたとのコミュニケーションのため」にnoteを書き続けている。
この理由にさっきの「周囲のヒトたちとの関係性の中で生かし生かされている」ということをかけ合わせるとこう言う理由に言い換えることが出来るかもしれない。
俺は「このnoteを読んでくれるあんたを支えたいし支えられたいため」にnoteを書き続けているってわけだ。
実際、このnoteを読んでくれたあんたからのコメントは実に俺を奮い立たせてくれる。
オモロイって言ってくれたコメントもあるし、ちっと違くね?ってのもある。
その全てのコミュニケーションこそが俺自身が望んでいることなんだ。
「そうあれかし」と俺が望むもの
で、俺が「こう生きていきたい」って姿はどんな姿なのか?
この生きるってことは高確率で「仕事」に結びつくとは思うんだけれど、今の俺の感覚だと「こう言う仕事をしたい」っていうのと「こう生きていきたい」って言葉には多少のズレを感じるんだよ。
「仕事」は手段の一つであって目的じゃないもんな。
今の感覚をできるだけ近い言葉にするとすればこんな感じかな?
多くのヒトを支え多くのヒトから支えられて世界を感じ続けたい。
つまりあんたと世界を感じていたいってことだ。
多分あんたと見る世界と息子や妻と見る世界では同じ世界でも違う姿を見せる気がするんだ。
だとすれば、100人のヒトと100回世界を見ていけば、100通りの世界が見えるはずだ。
俺はその世界を見続けていたい。
その多様な世界観を俺の中で認識できれば、それは大きな優しさを手に入れられると思うからさ。
そして、俺の墓にはこんな言葉を刻んでもらえたら、きっと俺の人生は俺の望み通りだったってことになると思う。
「優しき男・ここに眠る」
俺の生きる目的は「優しくなる」ってことなんだな。
なあ、あんたはどうだい?
あんたの理想の姿を俺にも聞かせておくれよ。