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「日記」という活動

あんたも家族からの気付きってやつを受け取っていたりするかい?

最近の俺の気付きは息子の宿題から感じたことだ。

息子の宿題に「日記」ってのがある。
何でも良いから日記をつけなさいってやつだ。

俺も日々noteを書き連ねていっているわけだけれども、こいつは誰かに書きなさいって言われて書く日記とはちっと意味が違う。

日々あったことを記録するって言うよりは自分の中にある何かを刺激する意味がでっかいような気がする。

誰かに書きなさいよ、って言われて書いているわけじゃないわけだ。

今回はこの「ヒトに書かされている文章」ってやつについて考えてみる回だ。

結構根深い話かもしれないけれど、付き合ってくれよな。

息子の日記を眺めてみる

とりあえずは出来上がった日記を眺めてみないことには始まらない。

なになに?

うむ、どうやら日直をやってみて大変だったから今まで日直をしてきたヒトは頑張ってたんだって気付きを書いているみたいだ。

なんつーんだ。
ザ・小学生日記だな。

この日記に対して先生がなんかコメントをのこさなきゃいけないから、きっちりコメントを返しやすくしているあたりに何かを感じる。

SNSが前提の世界観ではこの「誰かに読まれる」って感覚で文章を書くってのは必要な行為なんだと思うんだよね。

このnoteもあんたに読まれることを前提に書いているわけだし、誰かに通じる言葉をチョイスするって訓練のためにも、この日記を書くって宿題は意味がでかいのかもしれないな。

褒められるための文章

ただ、ちょっと思ったんだよ。

息子の日記は「誰かに褒めてもらうための文章」を目指しているんじゃないかってさ。

まあ、宿題なんだから先生に評価してもらわないことには始まらないので、あたりまえっちゃ~あたりまえなんだけれどさ。

それでも、誰か特定のヒトに褒められる文章ってどうなんだ?って思っちまう。
だってそうじゃんか?
それって、自分の感じていることじゃなくて自分という存在を褒めてもらいたい文章ってことだもんよ。

と、書いておいてふとと思う。

俺の日々のnoteはどうなんだってさ。

楽しんでもらうための文章

俺の日々のnoteはあんたと「オモロイ」を共有するためのものだ。
誰かに「書きなさいな」と言われて書いているものではない。

誰かが俺の書いている文章で「楽しい」って思ってもらえたらオモロイなあと思って書き連ねている。

まあ、褒めてもらったら嬉しいしいのは間違いないんだけれども、誰かに与えてもらった課題をクリアするためのものじゃない。

そう考えると、息子の「日記の宿題」ってのはなかなかな難易度の作業だよな。
だって、先生と両親以外には読まれることすら無い文章をひたすらありもしない「正解」に向けて書くって行為なわけだもんな。

そこには「楽しんでもらった」というカタルシスではなくて「評価された」ってカタルシスしか無い。
しかも先生や両親が楽しんだからと言ってその文章が世の中で通じるかなんてことは誰も判断できないって前提でだ。

文章を書くと言う練習

それでもだよ。

誰かに自分の書いた文章を評価されるって経験はものすごく貴重だと思うんだ。

なぜって?
だって俺たちはほぼ全員が何らかの表現をし続けるって世界観で生きるようになっているからだ。

俺たちが自分を表現する対象ってのは俺らがガキンチョの頃とは比較にならない。
ビックリするくらい知らないヒトに評価される世界観に俺たちは生きている。

この状況の中で、自己表現を出来ないって状態は許されるはずもない。

自己表現が出来ないこと。それすなわち世の中にいてもいなくてもどうでもいいって判断されることとイコールだ。
どうよ、その目蒲線みたいな存在。
#伝われ

だからこそ、俺たちは磨き続けてなければ行けない。
自分の感覚を言葉にするという技術をね。

まあ、磨けているのか?って言われたら「さーせん」って言うしか無いかもしれないけれどさ。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは俺たちの中にあるなにかを誰かに届く言葉にして紡いでいくことが出来ると思うかい?

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