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気持ちの「理解」ってむちゃ

あんたはヒトの気持ちについて考えたりするかい?

みんな大好きももまろさんがなかなかに刺激的な記事を上げてくれた。

ヒトの気持ちを理解しなさいよって意見はむちゃだべ?ってことであってんかな?
うん、むちゃだ。

親でも、息子でも、妻でも、親戚でも、友達でも。
なんなら、自分自身でも。

気持ちを理解するなんて言葉が示すものは実に深淵で、俺は毎日俺の気持ちを言語化しようとしているけれど、そんなん究極的にはデキッコナイスなことだと思うしな。

でもだ。
それでもだ。

俺たちは誰かの気持ちに寄り添いたいって欲望を持っているってのはある気もする。

今回は誰かの気持ちに寄り添いたいって感覚について考えてみる回だ。

ちっと気持ちに寄り添うってどういうことか、考えておこうぜ。

気持ちを「理解」する難しさ

ももまろさんも書いてくれているけれど、「気持ちを理解する」ってのはむちゃが過ぎると思う。

俺たちは気持ちを「想像する」ことは出来るかも知らんけれど、「理解する」ことなんて出来るように作られてない。
アリとかハチとかの群生系の生物ならもしかそれが出来てるかもしれないけれど、ヒトってのは社会って複雑なシステムを作った時点で、個体の「気持ち」なんてものを重要視出来なくなってるもんな。

必要とされているのは個体の気持ちじゃなくて、個体の気持ちを束ねる「物語」なんだよな。

その「物語」によって個体は同じ目的に向かってパフォーマンスを発揮するってからくりだ。

宗教だとか、政治だとか、貨幣だとか、国家だとか。

そう言う「物語」を俺たちヒトは作り上げ続けてきた。
その「物語」には個体の気持ちなるものは実はあまり加味されていない。

キリスト教では神との契約なるものが前提にあって、ヒトはそれに従うということでヒトの協力を生み出してきたわけだし、政治では王政国家では「王の決定事項はもっとも重要だ」という物語をヒトが信じることで強大な力を駆使してきた。

貨幣という人類史上最もよく出来た物語は今現在もヒトを一つの価値観にまとめ上げている。

国家に至っては、なぜそれがヒトをまとめ上げることが出来ているのかを説明することが難しいほど、ヒトの心の根っこにある感覚だとも思う。
だってそうだろ?
ウクライナがあんなに厳しい状況になっても「国」をなんとか守ろうってヒトたちが団結できるのって、客観的に見たら奇跡みたいなもんだろ?

それでもヒトは「国」に寄り添っている。
それがあたかもヒトの性質として作り込まれているみたいにね。

でね。
宗教だとか、政治だとか、貨幣だとか、国家だとかってのは、「ヒトの気持ち」ってのと本質的に関連が薄いと思うんだよ。

対象がでかすぎるのかもしれないよな。

「あいつ」と協力することと「俺たち」が協力すること

俺たちはさ。
最小単位の人間関係ってのが身の回りにあるじゃんか。

俺とあんた。
あんたと仕事を一緒にするやつ。
息子と友達。
妻と俺。

こう言うマンツーマンの関係性が束ねられて組織ってのが出来上がるってのは事実としてあると思う。

ただ、このマンツーマンの関係でも「気持ちを理解する」ことを前提として成り立っているのかって疑問って無いか?

そもそも「気持ちを理解する」ってどういう状態だ?

俺たちが俺たち自身の「気持ちを理解する」ってどういう状態だ?

俺は日々、自分の気持ってのを言語化しようとしているのはそうだ。
でも俺は俺の気持ちを理解できているのか?って言われたら「ぐむぅ」って言うしかなくなる気がするんだ。

理解ってのはさ。
そのロジックを把握した上で未来予測が出来る状態のこったろ?

そう考えるとさ。
自分の気持ちですら未来予測するのなんて無理ゲーな気がしてくるじゃんか。

俺たちヒトはさ。
俺たちヒトが抱えている感情というロジックを理解できてないんだよ。

だからこそだよ。
俺たちには物語が必要になるってわけだ。

だとすればだ。
俺たちに必要なのは感情を束ねる物語を紡ぐってことなんだけれど、それには特殊な才能が必要になるよな。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは誰かの気持ちとどうやって共感する物語を作り上げられるんだろうな?

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