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正義の快感と妬みの共感
あんたも有名人のきらびやかな生活の情報とかを見たりするかい?
最近はSNSを経由して、自らのブランディングを有名人がするってのも日常的な風景になってきているよな。
そんな中でこんなニュースが俺の低めのアンテナに引っかかってきたんだよね。
おお、板野友美さん元気に暮らしているんだね。良いことだ。
そんな風に思って記事を見ると、どうやらこの姿が反感を買っているってんだよね。
ふむ?なんで?うまそうじゃん。
今回は他のヒトの幸せを見たときの妬みの感情が発信される意味について考えて見る回だ。
ちっとこのおっかない話に付き合ってくれよな。
優雅な朝というファンタジーを発信するということ
どうも記事を読んでみると、この姿はどうもフィクションってことらしい。
実際には子育てを始めとする日常に忙殺されているってことなんだろうね。
そのことが板野友美さんのインスタグラムに上の記事の写真とともにアップされていたんだそうだ。
実際のインスタグラムはこれか。
コメントを眺めてみると、総じて好意的なコメントにあふれている様に見える。
ところが記事ではこんな風に書かれている。
この投稿にネット上からは「世の母はみんな子育てに苦労しているのに」「いちいちそんなのをUPする必要ない」「子供が生まれたら優雅な朝とかまずない…」「本当に子育てやってるの?」などの手厳しいコメントが続出している。
……これさ。事実と違くない?
実際に付けられているコメントをざっと見ると、きっちりフィクションであることをネタとして理解しているものが多いし、そもそも好意的なコメントしか見当たらない。
インスタってコメント流れてっちゃうもんなんだっけ?
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まあ、百歩譲ってそう言うコメントがあったのが事実だとして、今見えるコメントはほぼほぼ好意的なものだから、上の記事みたいなコメントの切り取りには意図が見える気がするよな。
ヒトの妬みを発信する意味
ざっくり言えば上の記事で切り取られているコメントって「ヒトの妬み」って側面だよね。
それを発信する意味ってのは一体何なんだろう?
妬みがあるってことを発信するのって、ワイドショーとかで不倫だの汚職だのを発信するってのとは、ちと意味が違う気がするじゃんか。
不倫だの汚職だのを発信するってのは、わかりやすく庶民の「正義」の心を刺激するからだと思うんだよ。
世の中にはびこる悪がワイドショーで晒し者にされていくことの快感ってのかな?
要するに勧善懲悪。水戸黄門を楽しむのと同じ理屈だと思うんだよ。
自分とは関係ないところでどこかの誰かの悪事が裁かれていること。
安全にその正義に加担できるカタルシス。
そう言う意味を持つと思うんだよね。
ところがこの妬みの発信ってのは何なんだろう?
もしかしたら逆に「自分が悪であることに対する共感」ってことなのかもな。
妬みってのは本来、美しい感情じゃない。
そう言う感情を持っているだけで、自分がまるで薄汚れてしまった様に感じるようなものだと思うんだ。
それでもこう言う妬みが起きていますよ~って記事を見ることによって、「ああ、自分だけじゃないんだ」って安心できる。
そう言うことなのかもって思ったんだよ。
正義と悪という呪い
こうして考えてみると、実に多くの事柄を正義と悪という軸で俺たちは感情をもって受け止めているってことなんだよな。
そう考えるとこのセリフが思い出される。
この街では誰もが神様みたいなもんさ。
いながらにしてこの目で見、その手で触れることのできぬあらゆる現実を知る。
何一つしない神様だ。
ワイドショーにしろ妬みの発信にせよ、俺たちはモニターの先で起きていることを自分に影響が及ばないものとして感情で処理している。
その結果として行動を起こすことはほとんどない。
ただただ、その感情を起こすために情報を消費し続けている。
そう考えると、正義とか悪ってのは俺たちが行動を伴わないでも満足を与えてくれる呪いみたいなもんだよな。
この呪いによって俺たちは行動を必要としなくなってしまう。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちはこの呪いとどう付き合っていけば良いんだろうか?