龍とそばかすの姫の構造
あんたも映画やアニメやらの扱うテーマってやつについて思いを馳せることがあるかい?
「龍とそばかすの姫」は興行的に非常に成功を収めた作品になっていると思うんだ。
圧倒的な歌声と映像美は映画館で俺たちを魅了するに十分だったってことなんだと思う。
対して、この「龍とそばかすの姫」という作品のストーリー展開については辛辣な意見も見え始めている。
今回は何が「龍とそばかすの姫」のストーリー展開で問題視されているのかってことを整理してみる回だ。
本編のストーリーについてガッツリ触れるからまだ見てないヒトは映画館にゴーな。
キャラクターたちが行動する動機
まずは改めて「龍とそばかすの姫」って作品を思い起こして見て結構な違和感を感じたところから書いてみる。
結構なヒトの行動についての動機についての描写がほとんどないってことだ。
虐待をしていた龍の父親はなぜ虐待に走ってしまったのか?
なぜすずの父親は娘とのコミュニケーションを薄くしているのか?
なぜしのぶはすずに正体をさらすことが信頼を勝ち取る道だと言ったのか?
それらの物語の根幹に関わりかねない動機が描写されていない。
想像することは出来るよ?
例えば龍の父親のことなら、伴侶を失って障害を持つ子どもが残されたときの龍の父親の絶望感と現実をなんとかしなければというプレッシャー。
でもそう言う描写がまったくないから、作品としてはシンプルな悪者としてしか描かれない。
最近の作品を眺めてみると、悪者の正義みたいなものを結構きちんと描いている作品は俺たちに良いエンタメとして捉えられている気がするわけだ。
僕のヒーローアカデミアの死柄木弔なんて良い例だと思うんだよね。
すずの父親のことなら、やっぱり伴侶を事故で失ってしまったショックってのは計り知れないはずだ。
それでも穏やかに娘に接していられるのはなぜなのか?
同じく伴侶を失っている様に見える龍と父親と何が違うのか?
児童虐待というテーマを扱うからには親の問題について掘り下げる必要があったはずだ。
そこにうってつけの対比構造をキャラクターとしては作り込んでいるはずなのに、その描写の掘り下げがまったくない。
結果として「世の中には良いヒトと悪いヒトがいる」って言う個性の否定につながりかねない変なメッセージを発することになってしまう。
これはちょっとした悲劇だ。
しのぶがすずに正体を晒せと言ったことも理解が出来ない。
しのぶの動機は「すずを守る」ってことに終止していたはずなのに、究極的な危険性をはらむアンヴェイルをすずに勧める動機が全く表現されていない。
守るって行動原理から考えれば、すずを危険から遠ざけることを大前提に解決方法を模索するはずだ。
それでもアンヴェイルという方法を考えたのは、ひとえにすずの気持ちを大切にしたいという動機だと想像は出来る。
でも一切その気持ちに対する描写がない。
例えば、しのぶ自身が児童虐待を受けていて、それを許せなかったとかの描写があれば納得感が出たのかも知れない。
もちろん、そこからしのぶがどう立ち直ったのかって描写を含めてね。
作品を構成するアイコン
そう言う感じで、「龍とそばかすの姫」には結構説明を端折っているところが散見されると思うんだ。
ではその説明を端折って良いとなぜ細田守監督は判断したのか?
こいつは俺の想像に過ぎないんだけれども、そう言うキャラクターの背景をシンプルにアイコンとしてしか認識していないんじゃないだろうか?
児童虐待というアイコン。
父子家庭というアイコン。
母性というアイコン。
語らずとも理解する仲間というアイコン。
そう言う予定調和的に俺たちの中にすでに作り込まれている「思い込み」を大前提として「龍とそばかすの姫」という作品は作り込まれているんじゃないか?
そう考えてみると「サマーウォーズ」にしろ「おおかみこどもの雨と雪」にしろ「バケモノの子」にしろ実に多くのアイコンで構成されている気がしてくる。
大家族、母子家庭、父子家庭、家出。
俺らの中にあるシンプルなイメージを前提に物語が作り上げられている。
そうすることでそれらに対する掘り下げという作品のテンポを崩す要素を削ぎ落としているってことなのかも知れない。
つまり児童虐待というのは、「龍とそばかすの姫」という作品のテーマではなくて、作品をエンタメとして成立させるための部品に過ぎないってこと。
言い換えれば、「龍とそばかすの姫」という作品は形を変えた水戸黄門ってことなのかもしれない。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは映画というエンタメからテーマを読み解くという楽しみ方をするには、時代の流れが速くなりすぎているってことなんだろうか?
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