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ネット時代の正直
あんたは、真っ正直に生きているかい?
俺たちオッサンともなると、ウソはつかないまでも、都合に合わせた解釈ってやつを、もぉそれこそ息をするように自然に行っているのが自然だと思う。
なにかトラブルがあれば、いやそれは○○だから、とか××さんが△△だとか。
言いわけめいた感想ってやつで保身を図る。
まあ、そうでもしないと生き残っていけないもんな。
でも、ふと思う。そういう感想ってやつは、他の誰でもない俺たちを真綿で首を絞めるようにジワジワと苦しめているんじゃないかってね。
今回は、真っ正直ものが持つ意味を考えてみる回だ。
まあ、気楽に読んでみてくれよ。
広告はウソなのか?
物があふれる現在。インターネットの出現により、ニーズが極端に多様化した現在における広告というものが担っている課題は非常に重い。
何しろ、広告というのはお金をもらって何かを誰かにおすすめするというのが本質だからな。
ポイントは、広告というビジネスモデルはお金をもらう約束をするのが最初で、その商品やサービスを「いいなあ」と思うのは後ってことだな。
場合によっては「いいなあ」って思うことは必須ですらない。
いや、実際良いものは多いよ?俺たちは毎日色んな商品を買い求めて消費している。
そのすべてが嘘で塗り固められた広告に踊らされているとは思わない。
スッキリしたものが飲みたいなあと思えばその辺で炭酸水を買うし、ちょっと今日はお昼でお味噌汁がいただきたいと思えば、近くの居酒屋チェーンのランチで定食をいただく。
確かに炭酸水でもWILKINSONを手にとっているときには、そのWILKINSONってやつのラベルでものを買っているから、完璧に広告を無視して買っているわけじゃないけれど、「ああ、前にWILKINSONの炭酸水を飲んだときに、強めの炭酸が心地よかったなぁ」くらいのことは考える。っていうか感じている。
その感じに従って、俺たちはものを買う。このケースで言えば誰かのおすすめってよりは、単純に自分の経験則で物を買っているわけだな。
その経験則に対する目印として広告が活躍しているわけだ。
とあるnoteを読んでみた
その前提で、こんなnoteを読んでみた。
結構読み味が良い記事だと思う。かつ、考えさせてくれる記事だ。うん、好きだね。これ。
で、この記事によれば、俺たち消費者が求める広告ってやつが何者なのかってことが透けて見えてくる。
俺たちが求めるもの。それは「本音」だ。
俺たちが何を消費して、何を感じているのか。そういう本音だ。
俺たちの多くが日々こさえ続けているnoteってやつは、俺たち消費者が求めている本音が結構な密度で出てきている。その意味では、noteの記事ってやつは良質な広告ってことになるのかもな。
そうなると、俺たちがnoteで記事を書くことで一番やらなきゃいけないこととやっちゃいけないことってのが見えてくる。
俺たちは自分の感じたことを言葉にしなきゃいけない。
なんかに影響を受けることも当然あるけれど、その影響を受けたものをそのまま書くんじゃなくて、その影響を受けたあんたのことを書かなきゃいけない。
そしてあんた自身を書くときにあんたを偽ってはいけない。
ウソはウソを呼ぶ。
あんたはあんた自身で十分に魅力的なんだ。ウソで飾り立てることなんて無い。
あんたがうまいというなら、俺たちは信じるし、あんたが不味いっていうなら、それも信じるだろう。
でもそれにはあんたが嘘をつかない人だって俺たちが信じている必要がある。
俺たちは、俺たちが思ったことを嘘偽りなく書いているってあんたに伝えなきゃいけないってわけだ。
あんたはどうだい?
俺たちの言葉はあんたに届きそうかい?