江戸の庶民に思いを馳せる
あんたも昔のヒトたちの生活ってやつが気になることがあるかい?
実際、俺たちはこの激動の世界に生きていながら、その土台を作った歴史ってやつについて、ほとんど「為政者」たちの行動にしか目を向けることって無いよな。
確かに為政者たちはその時代のヒトたちの生活を支える役割を担っていたわけだし、その決断の歴史は俺たちの心に大きな感動すら与えることもある。
でもとあるnoteを読んでみて、「ああ、普通のヒトも生きていたんだよな」って当たり前のことを感じることができたんだよね。
今回は、そのnoteの感想を書き連ねながら庶民の歴史ってやつについて考えてみる回だ。
歴史家が整理してくれた歴史じゃなくて、俺たち庶民が庶民の歴史に思いを馳せるってのも、なかなかにオモロそうだろう?
江戸の生活のほんの一部を切り取る
今回、このnoteを書くきっかけをくれたのがこの記事だ。
太田記念美術館というのは原宿にある浮世絵専門の美術館だそうだ。
ラフォーレ原宿の裏手にあるんだね。
で、この記事はその太田記念美術館が所蔵する浮世絵を題材に、「雨が降ったときのヒトの行動」っていうなんとも日常そのものの風景を切り取って紹介してくれている。
こう言う記事って、ホント俺たちの知的好奇心ってやつを刺激してくれるよな。
曰く、江戸のヒトたちは雨が降ると裸足になっていたのか?ってことらしい。
浮世絵に描かれているヒトたちは、たしかに雨のシーンでは裸足になっているか、高下駄を履いているように描かれている。
ちなみに、ちょっと気になったので晴れの日に下駄を履くことはなかったんだろうか?って調べてみた。
まず、下駄の種類の多さにびっくりする。
いわゆる普通の下駄である駒下駄に始まって、高下駄に千両下駄。
で、お目当ての日和下駄ってのがあることを上のサイトでは教えてくれた。
曰く、雨の日は高下駄を使って、晴れの日は日和下駄を使うってことらしい。はは~んなるほど。
で、太田記念美術館さんのnoteで紹介されている浮世絵を見てみると、たしかに裸足になっているヒトが多い。
これは急な雨で草履が傷まないように裸足になっているって説明をしてくれている。
物を大事にする文化
これって今の世の中の感覚との間に結構な違いがあるよな。
高度成長期を経て、俺たちは「消費することが当たり前」という世界観で育ってきている。
高度成長期が大量生産による景気の拡大である以上は使い捨てのような文化にならざるを得なかった。
ところが、世界的な環境の変化に対応するために俺たちはより「継続可能な」世界を目指す必要性にせまられる事態になった。
それがSDGsのような動きへとつながっているわけだね。
大量消費というのが当たり前の世界観から抜け出るためにはやっぱり何かしらのきっかけがいるってこと何だと思う。
そこで、さっきの「裸足の江戸のヒトたち」に思いを馳せてみる。
当時の江戸庶民は貧乏で困っていたから草履を大切に使っていたんだろうか?
これは俺の想像がかなり入り込んでいるけれども、そう言うわけじゃなかったんじゃないかって思っているんだ。
やわらかな生き方
その考えのもとになっているのかこのサイトだ。
このサイトではとある奉公人の1年を通じた働き方について触れられている。
高度成長期に実現されていた一人のヒトが一つの仕事をこなしていくって価値観は全く無くて、季節労働の塊で臨機応変に生活していたことがよく分かる良いサイトだと思うんだ。
正月には正月飾り用の木をとってきては売り、春は農作業を手伝い、夏から秋にかけては収穫を手伝ったり栗拾いに行って、それを街で売ってきたり、その働き方はとてもやわらかだ。
このやわらかな生き方。
それが裸足で雨の日を過ごすって姿に重なって見えないか?
草履を履いていても高下駄を履いていても、その当時の道路事情も相まって、家に上がるときには足を拭いていたらしい。
だとしたら、裸足で歩いていてもそんなに違いはない。
そんな柔軟性を感じるんだよ。
時は経って現代。
俺たちは一人が一つの仕事をこなすって世界観から昔のやわらかな生き方を求められつつある。
太田記念美術館さんの浮世絵の中のヒトたちはそんな俺たちに何を伝えてくれているんだろうか?
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは雨で草履を脱ぐようなやわらかさを取り戻せると思うかい?
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