[言葉]伝達と記憶[不完全であることを承知で使わねばならぬもの]
あんたは何かで勝負をかけるようなことがあるかい?
仕事をやっている以上はどこかで勝負をかけなければならない時はあると思うんだよね。
例えば、商談活動をするときに、商売を取れないと社員が食っていくことが出来ない。
しかも商談活動で勝利するのは大抵のケースでは一等賞をとったところだけだ。
※ごく例外的に複数社で分担して仕事を取ることもあるけれど、顧客の管理能力が相当無いと高確率で失敗するやつだ。
逆にそういう商売に手を出しちゃーまずいってやつだね。
そんなことを考えていたら懐かしいフレーズのタイトルが目に入ってきた。
TAKAさんはこの2位じゃダメなんですかって言うフレーズについてこの間の都知事選挙を例に上げて味わい直してくれている。
確かに都知事選挙で都知事になれるヒトって一人だけだし、文字通り2位じゃダメなわけだ。
このことを取り上げて2位を目標に据えた瞬間に1位は諦めていると言う精神状態を想像してくれている。
たしかにそうだと思ったんだよね。
3位になってしまった蓮舫さん
結果だけみると、蓮舫さんは2位にすらなれず3位になってしまった。
なんとなくだけれど、政治生命の危機にひんしている気がしてるんだよね。
そう考えると、過去の発言をずっと切り取りされ続ける立場のヒトって結構いると思う。
政治家しかり、タレントしかり、社長しかり、なんなら親としての発言だって子どもにとってずっと残り続ける物がある。
たぶんだけれど、今の俺がお金に対して「ケチ」なのって子どものときにおもちゃをねだって買ってもらった時の母親のセリフに由来していると思う。
そのとき、おもちゃを買ってもらって「お金なくなっちゃった」と母は言ったんだ。
このときの恐怖は今でも思い出せるくらいのインパクトがあったんだよね。
一人の親ですら言葉ってのは相手の中に残り続ける可能性があるってわけだ。
言葉の外部化
なんとなくそんな事を考えていたら、攻殻機動隊の人形遣いのセリフを思い出したんだ。
「たとえ記憶が幻の同義語だとしてもヒトは記憶によって生きるものだ」
そして、今言葉はネットと言う媒体を経由して指数関数的に増え続けている。
そしてヒトはその無数の情報の中から「自分にとって都合の良い」言葉を記憶して生きていく。
そう考えると、ヒトが「文字」を手に入れたときにすでに俺たちは記憶の外部化によって自分にとって都合の良い記憶を手に入れたってことだろう。
聖書なんてその最たる例だよな。
聖書は長い年月をかけて編纂され、「都合の良い」記憶として長年にわたって読みつがれている。
しかも、その内容は一言一句間違っていない。完全なものとしてだ。
今でもキリスト教徒は世界最大の宗教組織だ。
でも明らかに旧約聖書には矛盾がある。
初っ端の創世記からしてね。
例えば、アダムとエヴァの話だけれど、最初はアダムしかいなかった。
一人では寂しかろうと神はアダムの肋骨を抜き取ってエヴァを作った。
この時点でおかしい。
アダムは完全なるものとして神に創造された。
そこから肋骨を抜き取ってしまった時点でアダムの完全性は失われてしまう。
知恵の実を食する前からアダムは完全性を失っていたことになる。
しかも完全を体現する神自身によってだ。
こんなに簡単な矛盾について、俺は俺以外のヒトから話を聞いたことは一回しか無い。
自分の友人からの話だった。
そいつも俺もキリスト教徒ではないので客観的に読めたってのはあるんだと思うんだけれど、試しに定期的に家に訪ねてきていたキリスト教徒(正確にはエホバの証人)のヒトにこの疑問をぶつけてみた。
案の定、答えは出なかった。
それほど言葉ってのは俺たちの意思を伝える道具としては不完全なものってことだろう。
そこで、今の状況を眺め直してみる。
実に多くの言葉が紡がれ、その信憑性について俺たちは大した検証をすることもなく「もっともらしい」と言う感情でその言葉を切り取る。
記憶が幻の同義語だとしてもヒトは記憶で生きる。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちが記憶に支配されないことは不可能だとして、どうやって「言葉」を紡いでいけば良いんだろうな?