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ミスに対する発信

あんたも誰かのミスについて色々と感じることってあるかい?

俺たちがヒトとして作業をするにあたってミスってのは避けがたく起きてしまうものだと思う。

でも、ミスを前提として世の中は回っていないってのがあるから、そのミスが起きてしまったときに、俺たちはどうしようもないほどの「怒り」だったり「悲しみ」といった感情にまとわれてしまうもんだよな。

なんで、そんなことになってるんだ!?
なんで、そんなことが起きた!?

そんな罵声を浴びせたくなってしまう。

でもさ、ミスを起こした本人も「ミスを起こしてやるぜ。へっへっへ~」とか考えてミスを起こしているわけじゃない。

今回はミスが起きたときの捉え方について考えてみる回だ。

どうするのが正解かなんてない話だけれど、付き合ってくれよな。

ミスのニュースの価値

今回、このミスについて考えるきっかけになったニュースがあるんだよね。

なんか、この手の「ワクチン無駄にしちゃいました」ニュースってちらほら出てくるよね。

このケースでは、ミスを防ぐためのルールを破って運用していたため、防げたかもしれないミスが起きてしまったってことのようだ。

って言うか、このニュースを見た第一印象は「なんでこんなのがニュースになるんだ?」だった。

そもそもワクチンについては自治体やら国やらが接種のコントロールをしているから、税金を使っての活動になる。
その意味でその活動におけるミスを国民は知る権利があるってことなんだろう。

でもさ。
本質的にはこのミスに対する対策はそのミスが起きた組織が対策を練るわけじゃん。
このニュースを聞いた俺たちはその組織の改革に対して一緒になってホンキで考えるなんてことはありえないじゃん。

実際、このニュースに対して寄せられているコメントを読んでみても「ミスは誰にでもあるけれど気をつけろよな」くらいのコメントしか寄せられていない印象だ。

だとしたら、こう言うミスを晒すニュースってのにどれだけの意味があるんだろうか?

ミスに対する発信

これって、組織が真の意味で自律型になれていないってことなんだろうか?

だってそうだろう?

この手のニュースの意味を考えたときに考えられる価値ってこんな感じだと思うんだよ。

(1) ミスをすると世間から叩かれるからミスを無くすってモチベーション
(2) 誰かのミスを叩くことによる大衆のカタルシス

(1)ってさ、真に自律的な組織には不要なものだよな。
でもそんな組織は存在し得ない。
そうあんたは思うかもな。
俺もそう思う。

だからこそ、俺たちはお互いを牽制しあって社会を構成しているってわけだ。

だから組織が改革するモチベーションの一部になるんであれば、この手のニュースの価値ってやつも出てくるのかもしれない。

ただ、今はすべてのヒトが発信者になる時代だ。
この手のニュースが本当に簡単に誹謗中傷って暴力につながる可能性もあると思うんだよ。

それが(2)の問題につながる。

俺たちホモサピエンスが社会という仕組みで生きているって事実は「正義」という虚構を必要とした。
その結果「正義」にもとる行為を糾弾するって言う本能のようなものを社会という仕組みの中に組み入れたんだと思う。

その結果として俺たちは正義の味方になるという行為に快感を覚えるようになっている。

正義の味方。すなわち悪を攻撃することで正義を実現するという行為。

全てのヒトが発信者になった今の世界ではこの攻撃手段が実に簡単に取れてしまう。
顔の見えていない状態で発信する場合は特にそうだ。

問題は正義ってものはヒトによって判断基準がちがうため、その攻撃がミスに対する問題解決につながるとは限らないってことだ。
そもそも、正義を行おうとしているヒトの動機が本人の「ガス抜き」でしかないから、解決しようっていう意思すらないケースだってある。

ミスに対する発信をするヒトも社会を構成する一人だから、ガス抜きそのものに価値がないとは思わないんだけれども、ガス抜きをするために「誰かを攻撃する」以外に方法はないんだろうか?

どうしても誰かの誹謗をしないとガス抜きが出来ないとして、それを不特定多数に向けて、もしくは本人に向ける必要性ってあんまりない気がするんだけれど、どうなんだろう?

気のおけない友人と雑談するときに話すだけじゃガス抜きにならないんだろうか?

それとも気のおけない友人との雑談ってことそのものが今の世界では貴重な体験ってことなんだろうか?

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは誰かのミスに対して感情を揺れ動かされたときにどういう反応をしていくことが多くの幸せを作ることにつながるんだろうか?

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