教育が求められる「正解」
あんたはいろんな問題の正解不正解について色々話されているのを眺めることとかあるかい?
最近だとこんなのを読んだんだよね。
ほへ?
4cm÷5mm=8
………あってね?
で、不正解の理由を先生に問うたところ「この式では答えは8になりません」って回答が返ってきたんだそうだ。
うん?
ならない?なんで?
どうも記事を読んでみると、指導要綱としてのお作法は単位を合わせてから計算するようにしないと数字だけで式が成立しないってことらしい。
つまりは単位の変換というプロセスを明示的に表現していないから「間違い」ってことなんだそうだ。
でもなぁ。「この式では答えは8にならない」と言う言葉は課題の本質からちと外れた表現になっちまっていると俺は感じたんだよね。
今回は問題に対する「正解」ってものについて考えてみる回だ。
言葉の伝え方、ちっと考えておこうぜ。
先生の判断理由を想像する
まずもって、なんで「4cm÷5mm=8」が式として成立していないと言うことになるのか?
単純に4÷5=0.8という式を出しておいて、単位をあわせるのをその式の後プロセスで1cmと1mmが1:10だから結果を10倍して0.8×10=8と言う順番で考えたとする。
確かに単位を合わせると言う行為を後回しにすると、とたんに数式の可読性が下がっていることを直感的に感じるところだよな。
となるとこの問題を正解するための数式はこうなるのかな?
4cm÷5mm=40mm÷5mm=8
まあ、数式としての可読性はこっちのが高い。
でもさ。
40mm÷5mmの部分を書かなかったことで「不正解」にする意図ってのは何なんだろうな?
おそらくは思考のプロセスを明示的に体験させる意味があると言う判断がそこにはあったってことなんだよな。
プロセスを表現する必要性
このプロセスを表現することって、俺たち大人の世界では結構重要視されることでもあると思うんだよね。
結論を推論しておいて、その結論に導かれるためのもっともらしい道を表現することで、その結論に対する共感を導き出す。
こいつは俺たちが仕事なりプライベートなりで散々パラやってきていることだと思うんだ。
仕事をやり始めたやつに対して「結論から言え」なんて指導をする風景はよく見るもんな。
結論を提示してから、その正しさを説明する。
結論だけではその正しさを判断することが出来ないから、説明を求める。
その説明として「4cm÷5mm=8」はまずいってことなんだろうな。
「この式では答えは8にならない」は説明になっているか
まあ、説明の仕方が世の中を渡っていくのに必要不可欠な要素だってのはそのとおりだと思うんだ。
その上でね。
「この式では答えは8にならない」
この言葉について考えてみたい。
それこそ結論から言えば「ならなくない」んだよな。
単位込で考えれば数式としては成立しているもんよ。
なので、この教師のヒトの言葉を言葉通り受け取るだけだと意図にはたどり着けないってことなんだよな。きっと。
つまり「この式だとみんなが納得することは難しい」ってくらいのことを言わんとしていたんだろう。
ポイントはこの「みんな」だよな。
誰が納得するための「説明」がこの問題では求められていたんだろう?
おそらく、というか九分九厘「小学生がその時点までに習っていることだけで理解できるように数式を書きなさい」なんてことは問題文として提示されているとは思えない。
問題文としての前提条件を「説明」していないってのは、「この式だとみんなが納得することは難しい」って俺の解釈と矛盾するね。
なんつーんだろうな?
説明が足りてないのよ。教える側も教わる側も。
でもこの問題に限らず、俺たちが日々取り組んでいる課題ってのに対応するための時間も労力もリミットがあるってのが現実だ。
つまり無限のリソースを使って説明し切るってのは無理があるんだよな。
なので「常識」と言う枠組みに当てはめて「正解」を判断せざるを得ないってことなのかもしれないな。
なあ、あんたはどう思う?
「常識」に当てはめるための教育の功罪についてもう一度考えてみたほうが良くないか?