ヒトが持つ魅力
あんたはアニメやマンガで表現されているキャラクターの人種について考えたりすることがあるかい?
アニメやマンガのキャラクターは金髪碧眼のような実際にいるような髪色と瞳色で表現されることもあれば、水色の髪色と瞳の色みたいな現実にはありえない色合いで表現されることもある。
そういう意味では人種とか知らねーよってのが一般的な感覚ってやつだと思うんだよな。
それよか、名前でどこの国のヒトなんだなって理解する方がデカい気がする。
だって見た目で言ったら綾波レイなんて何人なんだって話じゃん。
………すまん。綾波レイは特殊な事例過ぎるかな。
まあ、何にしてもアニメとかマンガにおける髪色、瞳色、肌色ってのはアイコンでしか無いってのが俺の感想何だよな。
それがヒトであり、見分けがつくってのが達成できているなら、あとはどうやって印象を強く出来るかって道具でしか無いんだよな。
今回はヒトの見た目ってやつについて考えてみる回だ。
ちっと俺たちがヒトに何を求めているのかって考えてみようぜ。
例えばミライ・ヤシマ
まずなんとなく思い出したのは機動戦士ガンダムのミライ・ヤシマだ。
このキャラクターは「美人」としては描かれていないと思う。
少なくとも造形的にはね。
でも、間違いなく作中で一番モテモテのキャラクターだと思う。
なんでだ?
俺の感想で言えば「強くて弱い」という個性にあると思うんだ。
言い換えれば母性って言葉になるのかもしれない。
キシリア・ザビのように完全無欠の強さは持っていないし、フラウ・ボウのように弱さとひたすらに寄り添うようなキャラクターでもない。
等身大のヒトという印象が強いキャラクターだと思うんだよね。
でね。
俺たちはミライ・ヤシマというキャラクターを髪色や瞳色、肌色で認識しているかって話だ。
しちゃいないと思うんだよ。
ガンダムを知っているヒトなら「あのホワイトベースのお母さん」って印象のが強いと思うんだ。1年戦争時は18歳なんだけれどね。
ミライ・ヤシマという名前から日本人をルーツにもってるヒトなんだなって思うから、流石に金髪碧眼だと違和感があるし、黒人の表現をされても違和感が残る。
なので、黄色人種の表現が施されているってわけだ。
今の日本人の美的感覚
そういう意味では、ブライト・ノアが黒人表現であっても違和感は無かったのかもしれない。
でも当時の日本では黒人という人種はレア中のレアだったってのがあるから、黒人というキャラクター表現を盛り込まなかったんだろう。
そういう日本の情勢があいまって、人種表現が白人と黄色人種に偏っていたってのはあるのかもしれないな。
でも、それは人種に対する偏見とは違う要素だと思うんだ。
単純に目にする範囲にいない人種だから表現に盛り込んでいなかったってだけだと思うからね。
でも、今の日本は結構いろんな外国人が訪問している。
なので、いろんな人種のヒトに対して美的感覚ってのを作用させる機会は増えてると思う。
例えば、アイクぬわらさんとかおもしろ美男子ってカテゴリだと俺は思うし。
見た目というよりは、ホント性格だとか内面での評価をすることが増えている気がするんだよな。
見た目で勝負するはずのアイドル業界もアイドルの性格みたいなものが注目されて、その性格で受け入れられているなんてのがある気がするじゃん。
関ジャニ(今はSUPER EIGHTなんだっけ?)なんて、まさにキャラクターで好かれていると思うしな。
なに?見た目も良いだろって?
うん、そうかも知れない。
言いたいのは見た目よりも性格という才能が受け入れられているんじゃないかってことね。
外国のセレブを考える
で、外国の有名人を考えてみる。
例えばシンディー・ローパー。
彼女が白人ではなかったとする。
その事によって俺は彼女の歌声を分類しただろうか。
してないんだよな。
あの唯一無二の声は「俺に届きさえすれば」俺を夢中にさせたと思う。
そう。届きさえすればなんだ。
届かせる。
そのために「白人」というステータスが必要だった時代ってのはあると思う。
マイケル・ジャクソンはそのために病的とも言えるほどの白人化をしたわけだろ?
でも、今の世界では届かせる方法ってのはいくらでもある。
人種はそこには意味をもたらしていないと感じるんだよな。
届きさえすれば、俺たちは天才を天才と認識できる。
シンディー・ローパーもマイケル・ジャクソンも宇多田ヒカルも等しく俺たちは天才だと認識出来る。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちはどうしたら見た目というインデックス以外で天才にふれることが出来るんだろうな?