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あんたにとっての八百万の神

あんたは八百万の神なんてものについて思いを馳せることがあるかい?

俺たち日本人にとってはなんつーか空気のように当たり前の感覚ってのがあると思うこの八百万の神という感覚。

川があればそこに神性を感じるし、木々を見ればそこに神性を感じる。
古い家屋やタンス。
オルゴールの博物館に行った時なんて、その物を作り出したヒトにすら神性を感じて涙したような記憶がある。

そこにはさ。
なんつーんだ。
ただそこにあり続けた「物語」に命を感じるみたいなことがあるわけじゃんか。

で、改めて考える。

神ってなんだ?ってさ。

今回は神という存在について想像してみる回だ。

ちっと俺たちにとっての神ってのが何なのか考えてみようぜ。


日本にとって神が無限にある意味

前にね。こんなんを書いてみているのよ。

この時は一神教というのは「神との契約」というのが前提にあるけれど、日本の八百万の神は契約を結んでくれもしないと書いてみている。

そもそも感覚として神々はヒトと対等に約束を結ぶような存在じゃないって思うんだよな。

そもそもこの「契約」という感覚が生まれるのは一神教という交渉窓口が一本化されているからってのがあるのかもしれない。

対して八百万の神はありとあらゆるものに神が宿るのだからそもそもその神がどんな影響力をどこに顕現するのかなんてことからわからない。

お願いをする対象でもない。
約束を守ってくれる存在でもない。

ただ、そこにいる。

それだけで意味を持つ存在。
それが八百万の神ってわけだ。

神に対する認識

たぶんだけれどね。

この八百万の神の感覚って一神教を自分の宗教だと感じているヒトには理解しがたい感覚だと思うんだよ。

だって、あんまりにも神という存在の意味が違うんだもん。

例えば日本神話における最高神って言えば天照大御神(アマテラスオオミカミ)だと思う。
でも、太陽を司る神というだけで、まあまあいろんな神様が天照大御神の意思とは別の行動を取るじゃん。

素戔嗚尊(スサノオノミコト)なんて逆らってばっかだし。

対して、例えばキリスト教、ユダヤ教の神であるヤハウェなんて、逆らった時点で「堕天」して悪魔扱いだ。

一神教の場合は敵か味方かって二分化せざるを得ないんだよな。

対して、八百万の神はみんなが「俺たち」になる可能性が残されている。
いや、全然「俺たち」になっているってわけじゃないけれどね。

言いたいのは隣の存在として神々がいるってことね。

神の英語訳

そう考えていくとだ。

神の英語訳に「God」を当てたのが結構な誤解を生んでいるような気がするんだ。

Godは最初の文字が大文字になっていることからも分かる通り固有名詞なんだ。

つまり英語という言語は最初から神が唯一神であるという前提で使われている言語ってわけなんだよな。

たぶん八百万の神ってのは「God」じゃないと思うんだよ。
あえて言うなら「spirit」って感じかね。

精霊。意思。魂。

そんな感じの言葉。

神とは支配者ではなくて、そこにいる世界の一要素なんだと思うんだよな。

支配者ではなく隣人としての神。

世界をなしている存在として敬意を払う。
そのうえで「お見守りください」と願う。
そしてそのお見守り頂いていることに恥じぬように日々を過ごす。

これが八百万の神の世界観だと思うんだよ。

俺たちは恥じていないか

そこで考える。

俺たちはお天道様に恥を感じずに過ごせているのか。
これを完璧に「大丈夫」って言えるやつはそうはいないと思う。

だって恥を感じないってことそのものを恥だって感じる感覚があんたにもないか?

例えばこんな文章がある。

「恥の多い生涯を送ってきました」

太宰治の人間失格の冒頭だ。
この作品を読んで「なんて悲しい人生なんだ」ってあんたも思ったかもしれない。
俺はさ。
それと同時に「そうだよな」って思ったんだよ。

俺たちは恥を知るために生きている。
そんなふうに感じたんだよな。

その恥に必要なもの。

それが八百万の神だと思ったんだよな。

見守ってくれる存在。
いつでも傍らにいてくれる存在。

だから俺たちは年のはじめに神様に祈るんだろう。
「今年もお見守りください」ってね。

なあ、あんたはどうだい?

あんたにとっての神はどんな存在だい?

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