
感謝
次の日からは想像通り、手続きの山をこなしていった。
トールは青色申告。経理会社の選択。
俺は巴さんと具体的な作業の内容の詰め、斎藤くんとの状況確認、税務処理のおさらい。
もう一つ、ITコーディネイターのフレームワークの復習。
立てて加えて今抱えている仕事の整理。
正直目が回った。
ただ、充実感をこれほど感じたのは久しぶりな気がした。
「田中、ちょっと良いか?」
そんな目まぐるしい状況の中で部長が俺に声を掛ける。
部長席の前に立つ。
「この間預かったこれだけれどさ」
辞表だ。
「気持ちは変わらないか?」
俺は言う。
「変わらないです。我が社には自分以外の有能な人材がいくらでもいますし。なんなら今の業務を自分が委任契約で受けてもいいですよ」
「まったく、したたかなやつだな」
部長が言う。
「……いつにする?」
「今のプロジェクトはもうすでに顧客テストに入っていて、後一月くらいでケリがつきます」
部長は少し考える。
「つまり、今のプロジェクトを完遂してからって話か……」
「そうですね。会社に対しての筋も通しやすいと考えましたし、なにより今のプロジェクトメンバに迷惑をかけたくない。そう考えてのタイミングです」
部長
部長は苦笑いを浮かべる。
「まったく、俺がどれだけお前の代わりを探すのに苦労してるのか分かってんのか」
「部長はそれが出来るから部長なんでしょ?」
我ながら偉そうな言い方だと思ったけれど、本心で、部長がいればこの会社は安泰だと思っているんだよな。
「分かった。今月末での辞職という方向で人事と調整する。さみしくなるな」
しんみりと部長が言う。
俺としても部長には世話になりっぱなしだっては気がかりだ。
「……今晩、少し飲みにでも行きませんか?」
「うん?」
すぐさま予定表に目を通す部長。
「行けそうだな。なら仕事の都合がいいタイミングで声をかけてくれ」
俺は一礼して言う。
「お声がけします」
葵
仕事のケリがある程度付いたところで部長に声をかけて葵に向かう。
「お前とサシ飲みするのはいつ以来だろうな」
「自分がワカゾーの頃ですから20年ぶりってところですかね」
「お互い年を取ったもんだ」
「全くです」
カランコロン
いつものドアベルが鳴る。
「いらっしゃい。あら今日は三田さんも一緒なのね」
少し俺は驚く。
「え?部長この店に来てたんすか?」
「まあ、たまにな」
「私の魅力を舐めてもらっては困ってよ」
ママの魅力か。
まいった。降参だ。
俺はそう思って両手を上げる。
「田中さんはI.W.ハーパーダブルロック、三田さんは紹興酒で良かったかしら」
「ああ、それで頼む」
部長がそう言った。
「俺もそれで」
「はい」
ママはいつも通り、静かに飲み物の準備をする。
「実際のところ、今の仕事が嫌になったわけじゃないんです」
俺はそう話を切り出した。
部長はただ黙って聞いている。
「ただ、息子も独立して、両親も妻も他界している。自分の身ひとつになった」
「そうだったな」
「なら、勝負をかけて自分ってやつを実感し直すのもありかななんて考えたんですよ」
部長はちょっと間をおいた。
言葉を選んでいる感じだった。
「その挑戦の先に何を求めてるんだ?」
まるで禅問答だ。
今度は俺が言葉を選ぶ番らしい。
「自分です」
「自分か……それはまた壮絶なテーマだな」
部長はそう言った。
「今の自分は田中健一という機能を世の中に提供しているだけ。自分は自分を好きになれるかを眺めてみたくなったんです」
「おまちどう」
ママがI.W.ハーパーと紹興酒を持ってきてくれた。
「ありがとう」
部長がホント空気のような自然な御礼の言葉を言った。
ああ、こういうところだよな。俺に足りてないのは。
「部長」
「うん?」
「今まで本当にありがとうございました」
深々と頭を下げた。
「頭を上げてくれ。田中」
部長はそう言って俺の肩に手をかけた。
「これからまるきり縁が切れるってわけじゃないんだろうからな」