誰かの進む方向を考える切っ掛け
あんたにもチョイチョイ見直すコンテンツってのがあるかい?
もちろん、ガンダムやらヤマトやらという物語として完結しているコンテンツを見返すシーンってのは普通にあると思う。
物によっては、何回か見直さないと理解できないコンテンツってのも普通にあるしな。
#押井守監督作品に多い
でね。
そんなコンテンツの中で、何かの切っ掛けで何度も見ちまうやつがあるんだよ。
そのコンテンツを見るたびに「ああ、言葉を丁寧に使っていかないとなぁ」って思わせられるんだ。
今回はそのコンテンツについて語る回だ。
まあ、ちっとオッサンの感傷にひたる様を眺めてくれよな。
命の授業
今回のターゲットコンテンツはこれだ。
結構有名なコンテンツだと思う。
ゴルゴ松本さんの少年院での授業風景ってやつだ。
漢字を軸にすることで、「意味」ってのを考えさせる内容はある種のスゴみを感じさせる内容になっている。
あんたも見たことがあるかい?
なんつーか、日々言葉を連ねながら何かを発信するってのを続けている自分から見ると、この「言葉に魂を込めている」姿ってのは実に感じ入るものがあるんだよね。
「幸」と「辛」の違いだとか「始」が女と台で出来ているだとか。
実に多くのことを少年たちに考えさせていると思うんだよな。
ヒトに考えさせる言葉
でだよ。
俺も、あんたに向けて日々「なにか」を考えてもらう切っ掛けになる文章を目指して書いている。
俺自身の中に答えなんてものはなくて、そもそも世の中に「答え」なんてものがあるのかさえ疑わしくなっちまう。
確かに「効率的な方法論」ってのは存在すると思う。
やれ、ライティング技術がどうのこうのとか、フロント商品とバックエンド商品をどうやって運用していくのが良いのかとか、そういうやつね。
確かに、そう言う「手段」を中心にした情報ってのは価値があると思う。
何しろ実績を伴った手段なわけだから、そのやり方をトレースすることによって新たな価値を生み出しやすいってのはあると思うからね。
でもさ。
それよりも価値を大きくすることってある気がするじゃんか。
何かって?
そりゃあ、あんたが「考えて生み出したなにか」だろ?
手段をトレースすることで生み出される価値ってのは、その手段を作り出したヒトの想定を超えることは難しい。
何しろトレースしているわけだから、同じ結果を得られれば100点だもんな。
それに対して、あんたが考え出した手段については100点ってものが存在しない。
何しろあんたが考えたんだから、そもそもの100点って基準が世の中にないわけだしね。
左足の向く方向
じゃあ、授業という誰かが誰かに何かを伝えるということに意味は無いのか?
ソンナコトないじゃんか。
実際、ゴルゴ松本さんのこの授業に俺は感動を覚えている。
そして、何度となくこの授業の動画へ反応しているヒトの動画を眺めている。
何に俺は感動しているんだろう?
きっとだけれども、若者たちが歩く「地図」を与えているって思えるからなんだろうな。
このゴルゴ松本さんの授業では「やり方」は一切教えていない。
ゴルゴ松本さんの授業では徹頭徹尾「コンパスの見方」だけを教えている様に感じるんだよね。
教えている場所が「少年院」という特殊な場所だってのもあるとは思う。
俺みたいな一般家庭で何不自由なく育ててもらったやつには想像もできないような境遇に見舞われている少年たちが多くいるんだと思う。
ゴルゴ松本さんにしたって、全ての少年の境遇を想像しきれるわけじゃない。
それでも彼の授業は少年たちの心を捉えた。
なぜか?
おそらくだけれども、ゴルゴ松本さんという「ヒト」が今まで何かを感じて生きてきたってことを少年たちが感じたからなんだろう。
少年たちは少年院というなんらかの「間違い」をしたと大人に決められてその施設にいる。
ところが、少年たちはその「間違い」がなぜ「間違い」なのかを本質的に理解するのが難しい状況にあると思う。
なんつってもその「間違い」を決めている法律ってのが自分の知りもしない「大人」が決めたものだからね。
ところが、その「間違い」を自分たちと同じ目線で経験を積んできたように見える「大人」であるゴルゴ松本さんが話す。
少年たちは、より直感的に進むべき方向を感じ取れたんじゃないだろうか?
進むべき方向。
つまりは俺たちの左足が踏み出す方向だ。
※なんかの統計で俺たちはあるきだす時に9割型左足から踏み出すんだと。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは誰かの左足を向ける方向を決めるための何かを共有できると思うかい?