
老兵はただ去りゆく
「じゃあね。ちゃんと野菜は摂るんだよ」
まったく、最後にかける言葉がそれかよ。
そう言って息子の真人が家を旅立った。
父子家庭で、ろくすっぽ相手をしなかった割には真っ当に育ったと思う。
さすが俺様の息子だ。
真人が旅立った後に、真人の部屋を見る。
綺麗さっぱり荷物が無くなっている。ご丁寧にベッドまで無くなっている。
なんつーんだ。息子にそんな事言うのはちと違うかもしれんが、あいつらしいと思った。
同時にもぬけの殻になった部屋を見る。
「いよいよ俺も一人か」
誰に言うでもなく言う。
なんとなく仏壇に向かう。
「真人が旅立ったよ」
妻の香の位牌と遺影に語りかける。
「また二人きりだな」
遺影の香はいつもどおり笑顔だ。
「ありがとうな。真人を見守ってくれて」
ダメだな。最近めちゃくちゃ涙もろくなってる。
俺は流れる涙をそのままにしばらく仏壇の前に座っていた。
決別
さて、真人がいなくなったから夕食当番からも開放かな。
うん?まてまて、真人が作ってくれなくなるってことはだよ。
俺が作んなきゃいけないんだよな。
まあ、当分は定食屋通いかなぁ。
そしてふと考える。
ああ、そうか。俺はあと10年も働いていられないのか。
っていうか、いつ命が付きてもおかしくない年齢になるわけだ。
一瞬ぞわっとしたものの、それも良いかもしれないと思ったりもした。
そう考えると、俺はモノを持ちすぎだって気になってくる。
俺がこの世を去るときに真人がこのうちを整理するってのは可哀想だからな。
いやまて、その前にボケちまって迷惑かけるってのもあるのか。
そうなると、いよいよ車の趣味ともお別れしたほうが良いのかもしれないな。
そう思って車庫のパンダトレノを眺めに行く。
「お前とも長い付き合いだよな」
当たり前だけれどもトレノは答えない。
「そろそろお前は俺の手に余ってくるんだと思うんだ」
トレノは沈黙を守っている。
「もっとうまく乗れるやつにお前を渡そうと思うんだよ」
香とこの車で遠出したことがふと思い浮かぶ。
「そうか、お前もさみしいよな」
そこにいるように香に語りかける。
「仕方ないじゃない」
そう言われた気がした。
翌週
俺は何日か家に返ってくるとトレノを眺める生活が続いた。
「どうして欲しい?」
そんな風にトレノに語りかける。
当然答えはない。
なんとなく、嫁に出すってのはこんな感じなのかと思ったりする。
空になった車庫を想像する。
思い出が手から砂のように擦り落ちていく感覚になる。
香との思い出。
真人との思い出。
このトレノは様々な思い出を紡いでくれた。
また、俺は泣いた。
もう良いじゃないか。
俺はもう、真人に背中を見せる必要はないんだ。
好きなだけ泣いたって良い。
そう思って、俺は声に出して泣いた。
真人
俺はスマホを手にして真人にLINEする。
「圭子さんと話をさせてくれないか」
それだけメッセージする。
数分後、真人から音声通話がくる。
「なになに?どういうこと?」
開口一番そう返ってくる。
「いやね、トレノを圭子さんが受け取ってくれるかって思ってさ」
「は?」
鳩が豆鉄砲をくらったような顔を真人がしている様子が想像できる。
「俺も免許返納をするのを考えるときだ。だったら、トレノを渡して納得いくヒトを考えたら圭子さんしか思いつかなかったんだ」
「免許返納?いやいやいや早すぎんだろ」
「もちろんすぐさまってわけじゃない。ただ、あのじゃじゃ馬は近い将来俺の手に余る様になる。だったら若いお前らに引き継いでもらいたいと思ったんだよ」
真人は少し黙った。
「分かった。圭子に変わる」
少し建って圭子さんの声が聞こえる。
「はい、お電話変わりました」
俺は単刀直入に言う。
「トレノ引き継いでくれないか?」
「わかりました」
即答だった。
この女性と一緒になった真人は幸せなんだと思えた。
「子どもが出来たら手放してくれて構わない。ファミリーカーじゃないしね」
「大切にします」
なんだろうな。
俺が欲しい言葉を先取りするこの感じ。
真人。お前は正しい選択をしたんだ。
「お願いします」
俺は翌月にトレノを真人のアパート前に運んで歩いて家路についた。