英語が日常に溶け込む意味
あんたの仕事でも、英語が日常的に入ってきていたりするかい?
まあ、英語に限らず自分たちの周りだけで通用するような言葉を混ぜて話すことってあるよな。
学生時代にテレビ局でバイトしていたときに「イーヒー貸して」って言われて、一瞬ポカーンとしたけれど、「火を貸して」って意味だってわかって、あたふたしながらなんとかしたことを思い出す。
他にも「ワカベーでズンタッタ」とか言う言葉を習った気がする。
「川辺で佇んだ」って意味らしい。
いつ使うんだそれ。
まあ、そう言う業界用語はさておいて、英語が日常の仕事に入り込んできているわけじゃん。
ぶっちゃけだよ。
英語が入り込みすぎて理解できないことが増えすぎているとは思う。
と同時に外来語抜きで表現するのもめちゃくちゃ難しいってのもある。
今回は、外来語を使わない難しさを眺める回だ。
まあ、ちっと言葉遊びみたいだけれど付き合ってくれよな。
言葉の意味の変化
いや、例えばだよ。
今まで書いてきた中にも外来語があるわけだ。
テレビ局とかね。
これ他になんて言えば良い?
地上波放送局?
なんつーか、意味が限定的になりすぎないか?
テレビ局ってのはBSもありゃあ、ネット放送も携わっている。
で、そのことをだ。
まったく「テレビ局」って言葉は表現していないんだよな。
にも関わらず、俺たちはテレビ局って存在を「そう言うもんだ」ってなんとなく思っているわけだ。
これってさ、「テレビ」って言う言葉に俺たちがめちゃくちゃ意味付けを追加し続けてきた結果だと思うんだよな。
その行動の果に、俺たちは「テレビ」って言葉の意味を変化させ続けていた。
おそらくだけれども、今までの俺の投稿もだ。
外来語をこじゃんと使ってきているはずだ。
そして、昔の投稿で、俺が使ってきた外来語の意味も今読むと少し意味が違って見えることもあるのかもしれない。
まさに言葉ってのは生き物ってことだよな。
外来語との決別は不可能に近い
で、日本語でもその意味が変わり続けるってのはあると思うんだけれどさ。
外来語の意味ってのはもっと変化し続けるという感覚があるんだよな。
変わるって言うか、もともと持っている意味が一般化していくってのが多いかな。
例えば、めちゃくちゃ使われる言葉で「タイトル」ってあるじゃん。
俺たちは元々この言葉を「表題」って意味で使ってきたと思うんだ。
でも、「勲章」みたいな意味でも使うよな。「肩書き」みたいな意味でも使う。なんなら「主題」という意味でも使ったりする。
全部もとのタイトルという言葉が持っている意味なんだけれど、俺たちが意味を理解する範囲が増えるのにともなってその言葉の解釈範囲が変わっていく。
そう考えるとだよ。
本来は発信で安易に外来語を使うのはよろしくないってことかもしれない。
でもだ。
現実的には外来語を表現から排除するってのは不可能だ。
Windows updateでアップデート通知が来たから対応しようとしたけれど、ダウンロードが遅すぎてパソコンがフリーズしちまった。
例えばこんな言葉。
日本語だけで表現すること出来るか?
極小手順組織の基本機能の更新通知がきたので対応しようとしたが、更新情報の取得に時間がかかりすぎて基本機能を実装した演算機が不具合を起こした。
とかか?
全然意味わからんべ。
もともと、日本語ってのが主語を省いたり、目的語を省いたりと曖昧な言語だってのもあって、この手の外来語の意味の多様性ってのを受け入れやすいってのもあるのかもしれない。
ってか、その曖昧性があってこそ、日本のヒト同士が協力できているってのもあるのかもな。
曖昧さが緩衝材になって人間関係が円滑に進むみたいな感じ?
だとすればだ。
仕事や生活に英語がめちゃくちゃ入り込んでいる現状はその緩衝材を失うキッカケになりつつあるってことなのかもしれないな。
なあ、あんたはどう思う?
英語が生活圏に入り込む頻度がどんどん高くなってきたときに、俺たちはヒトとしての協力の方法を変えていくことになると思うかい?
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