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批判と肯定と感情と発信と

あんたも一連の旧ジャニーズ事務所の故ジャニー喜多川さんの性加害問題関連のニュースを眺めているかい?

ぶっちゃけ、俺としては「そっとしておいてやれよ」ってのが正直な感想なんだけれど、それに絡んでこんなニュースが流れていた。

なんか「ふーん」って感想をもっちゃいけないらしい。

これさ、ホント言葉狩りってやつじゃん。

いや、俺自身はジャニオタとか名乗れるようなファン活動なんて微塵もしていないんだけれどさ。
これは山田君がかわいそうすぎるって思ったわけよ。

山田君の活躍はニュースでチラ見する程度だけれど、鋼の錬金術師の実写版では広告だけ見ても「はまり役なんだろうな」って思えるくらいしっくり来てた。

いや、舘ひろしさんのハマりっぷりもエグいな。

話を戻すと、こういう芸能人の発言ってやつを取り上げてたたくってのはその芸能人の提供している価値ってのをなくしちまう可能性があるってことを俺たちは理解できているんだろうか?

今回は俺たちが誰かを否定する発信について考える回だ。

ちっと難しい話になるかもだけれど、付き合ってくれよな。


批判をするってこと

いや、「それはよくないよ」って発言をすることそのものをダメってしちまうと、それこそ言論統制じゃんかってなるのはその通りだと思う。

やっぱポイントは「どういう意図をもって発信しているか」ってことなんじゃないかと思うんだよな。

この山田君の「ふーん」発言もさ。
それに対して「悲しい」だとか「おかしい」だとかって思うことはあっても不自然じゃないし、そのことについて周囲のヒトと話すことだってあると思うんだ。

ただ、そのことについてなんらかの「発信」をするってなると意味がちっと変わってくると思うんだよね。

俺みたいなネットのすみっコぐらしをしている奴の発信でもさ。
読んだヒトの感覚ってのを刺激するわけじゃんか。

その意味では山田君の「ふーん」も俺たちを刺激したってことになるんだけれど、言いたいのはある意味で俺たちは誰もが山田君と同じ土俵に立っているって覚悟を持たんといかんってことね。

オッサンの通したいもの

まあ、言ってみればこの発信に対しての覚悟ってのもさ。

俺が単純に「こうあってほしい」って言う願望を抱いているだけなんだとは思うんだよ。

さっきの山田君に対する反応でもさ。
中には山田君自身のことを考えて発信しているヒトもいるんだと思うんだ。

でも目に付くのは「こうであってほしかった」って言う山田君への「期待」が主軸なんだよな。
まさに今の俺と同じようにね。

じゃあ、今の俺はあんたに期待をしているわけだけれど、何のためにその期待をしているんだ?

あんたも思わないか?

誰もが誰かのために考える社会ってやつをさ。

あんたのことを考えてみる

で、自分勝手な俺は考えるわけだ。

これを読んでくれるあんたのために俺は何を考えることが出来ているんだってさ。

ぶっちゃけ俺は俺が感じたことを文にしているだけで、あんたのことを考えているなんておこがましくて言えるもんじゃないと思う。

あんたが俺と同じオッサンだとして、「若者の芽をつぶさないように考えようぜ」って共感を求めることはあるかもしれない。
あんたがオバハンだとして、「いろんなヒトの感情にさらされるのってきついよな」って想像することもあるかもしれない。
あんたが若者だとして、「あんたに俺たちが多くのものを背負わせているように、俺たちも上の世代からデッカイ荷物を受け取ってるんだぜ」と泣き言を言うかもしれない。
あんたが俺の先輩世代だとして、「俺たちはあんたたちよりうまく世の中を回せていません」と後悔を口にするかもしれない。

いろんな批判や共感、それに期待に失望。

それを俺は感じて、それを言葉にする。

その結果として、あんたの感情は刺激され、そして新たな発信につながっていく。

そう考えてみるとさ。
山田君の「ふーん」にも価値があるように思えないか?

なあ、あんたはどう思う?

誰しもが発信しつつ受け取るという世界観で、俺たちは何に価値を見出していくんだろうか?

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