物語と役割
あんたにもスキな物語ってのがあるかい?
オッサンともなると、昔からスキな物語ってのはある。
っていうか、新しい作品をスキになれることの方が結構珍しいことかもしれない。
若い頃だったら、胸を張って「おいらはオタクなんじゃい!」って言えた気がするんだけれども、今となってはオタクと言う肩書を背負っていけるほど貪欲に新しい作品に刺激を求めに行ってはいない気もするんだよね。
でね。
逆に昔からスキな物語ってやつについては、繰り返し味わってきた感覚をコリもせずに反芻し続けている気がするんだ。
もちろん、その事によって新しい発見を手に入れることもあるんだけれど、もはや、その反芻という行為が自分という個性の一部みたいに感じることもあるんだよな。
なに?それをオタクって言うんじゃないのかって?
ううん、オタクってのは確かに繰り返し作品を味わい尽くすって側面もあるかも知らんけれど、そこに深みを増し続ける欲求みたいなものを抱えている気がしないか?
今の俺にはそれほどのパトスを持てているって宣言できるほどの胆力を持ち合わせていないって感覚があるんだよね。
今回はそんな自分というキャラクターが世の中に対して担っている役割ってやつを考えてみる回だ。
ちっと、自分の一側面をあえてあぶり出してみるかね。
機能としての個性
今回、この自分の個性ってやつについて考えてみる切っ掛けをくれた記事があるんだ。
うさるさんのこの記事を読ませてもらった印象としては、「ああ、このヒトはものすごく真っ当に作品を楽しんでいる。そして、その楽しみ方はこのヒトの個性だ」ってやつだった。
俺も銀河英雄伝説と言う壮大な物語に魅了された一人ではあるんだけれど、うさるさんの記事ほど物語の構造とヤン・ウェンリーというキャラクターがマッチ「させられている」と腹落ちさせてもらった記事もそうそうあるもんじゃないと思ったんだ。
詳しくはうさるさんの記事を読んでみてくれよ。
なんつーか銀河英雄伝説と言う作品がスキなヒトは「おおう!」と思うこと請け合いだと思うからさ。
俺が感じたのはヤン・ウェンリーというキャラクターは「感情移入」は出来ないけれど、「感情を理解する」ことは比較的容易なキャラクターなんだってことだ。
多くの物語は主人公に感情移入させることによって、作品への没入感を生み出している。
銀河英雄伝説においてはその役割をもう一人の主人公であるラインハルト・フォン・ローエングラムが担っている。
ものすごく感情的だからその熱に引っ張られるように魅力が描き出されていると思うわけだ。
対してヤン・ウェンリーは感情を表に出すことはあるけれども、どうしてもフィルター越しにその感情を見ているような気分にさせられる。
これは確かにヤン・ウェンリーと言うキャラクターが作品において担わされている「評論家としての機能」の為せる技ってことなんだろうな。
自分というキャラクター
でだ。
現実が一つの物語だとして、自分が担っている役割ってなんなんだろう?とかどっかで聞いたようなことのある青臭いことを考え始めるわけだ。
ワカゾーの頃の俺は、なんつーか良い意味でも悪い意味でも唯我独尊なやつだったと思う。
突っ走って、みんながそれについてきてくれて、派手にコケたと思ったら、ついてきてくれたみんなもコケているのに、みんなでお互いを支え合っているって言う集団の中心に居た。
当時の俺はその「旗」のような役割を担うってことに抵抗を持っていなかった。
というか自分の役割なんてものを俯瞰して考えるなんて余裕はなかった。
ただガムシャラに突っ走って、その結果として役割はついてきたってことなんだと思う。
で、時は経った。
転びまくった俺は「旗」としての自分の価値を信じられなくなった。
ふと俯瞰して周りを見渡すと、俺の唯我独尊に巻き込まれて傷だらけになっている仲間がたくさんいた。
へこんだね。
おおよそ、俺には何の価値もないって本気で思ったね。
その凹んだ結果として、今の俺と言うキャラクターは出来ていると思ったりもするんだ。
すなわち、誰かがコケた時に一緒に立ち上がるって役割を「担いたがっている」ってキャラクター。
いや、担えてないのよ?
「担いたがっている」だけなんだよ?
そこで冒頭の問に戻る。
現実という物語における俺というキャラクターの機能はなんだ?ってね。
ヤン・ウェンリーのような評論家にもなれない。
ラインハルト・フォン・ローエングラムのように熱情をもって巻き込むカリスマ性も持ち合わせていない。
俺がしているのは、ただ賽の河原で石を積み上げているだけなのかもしれない。
だが、それがどうした。
俺は、俺たちは生きているんだ。
ずるいけれど、コレが今の俺がひねり出せる俺という機能を表す言葉なんだろう。
なあ、あんたはどうだい?
あんたの現実における役割ってどんなものだい?