コメントと引用と
あんたはどんなふうにnoteを楽しんでいるんだろうな?
noteは一般的なブログツールの要素を持ちながら、根っこの所はSNSと言う性格を持っていると思う。
なんとなくのイメージだけれど、アメブロとかに比べると「コメントを残す」ってことに対する抵抗感みたいなものが少ない感じがするんだよね。
まあ、俺の場合それでもコメントをもらえることはレアだから、もらったときはそりゃあ嬉しいもんさね。
今回はコメントって行為について考えてみる回だ。
ちっとnoteって媒体でのコミュニケーションについて考えてみようぜ。
コメントによる交流
今回このコメントってテーマをくれたnoteがある。
奈星さんは文章のプロってことなのかな?
出版しているってあこがれの対象だよなあ。
で、その奈星さんのご意見としては、noteってのはコメントを残したいと言う欲求がまずあって、そこから発生するコミュニケーションを楽しんでいるってことと読み取ったんだよね。
なんつーか、一欠片も同意できない要素が無い。
俺もなんか感じる事があったときにはコメントを残すことも結構あると思う。
この「感じる」ってのが実に貴重な体験だと思うんだよな。
コメントだと足りない問題
と、言いながら、ホントに何かを感じたときって俺の場合はコメントって形で足跡を残すってことが返って少ないのかもしれないと思ったりもするんだよ。
なぜって?
何かを感じたってのが事実としてあったとして、その時点ではまだ言語化出来ていない状態なわけじゃんか。大抵は。
なんかの意見を書いてくれているnoteを読んで、その意見に対して「同感した」だの「違うと思う」だのだけなら、その場で書き残せるわけだけれども、「その意見がどう言う意味をもつんだ?」ってなると、コメントで読ませるには実に表現として限定的にならざるをえない。
例えば奈星さんの「コメント」に対する気持ちってのは完全に同意なんだけれど、それでも「コメント」を俺自身は残すことがレアっちゃあレアなんだよ。
そして、その理由ってのがなんなのか?ってことについて、俺は今までは言語化してこなかったわけだ。
で、今回改めてその事を考えてみて、コメントと言う方法だと自分の考えを言語化するのにどうしても表現方法が足りないって感じているって整理になったわけだ。
引用して記事を書く
なので、何かを感じたnoteを読ませてもらったときには、結構な頻度でこのnoteみたいに引用して内容を自分なりに掘り下げて考えてみるってやり方をすることが多いんだよ。
もちろん、感じたことがその場でストレートに表現できる感じがすればコメントで表現することもあるけれどね。
今回の奈星さんの「コメントしないともったいないよね」って話に対しては、「そうだよね~」ってコメントを残すだけじゃもったいないって思ったんだよ。
もうちっと、自分の中にある何かってのを探るための入口をもらったような気がしたからさ。
そうなんだよな。
いろんなnoteの記事を読ませてもらって、何かを感じるときってのはそれまでの自分の中にある「何か」の存在を気づかしてもらっていることが多い気もする。
もちろん、それまでの自分の中にまるで無いことを教えてくれるnoteもあるけれど、今回の奈星さんのnoteの場合は、明らかにかねてから自分の中にあったけれど、それが自分自身で顕在化出来ていない状態だった感じ。
なんつーの?
読ませてもらったnoteが自分の地層みたいなものが見える場所に連れてきてくれて、その地層に対して発掘調査する感じ?
この発掘と言う作業をするためには、コメントだけだとどうしても足りないって感覚があるんだよね。
コメントでなければ出来ないこと
と言いながら、コメントでないと掘り起こすことが難しいことも当然のようにあると思う。
この記事みたいに自分一人であーでもないこーでもないと考えるってのの価値もあるとは思う。
でも、コメントのやり取りによって何かの気づきにたどり着くってのも普通にあると思うからね。
つまりあれか。
「反応してみ?楽しいぜ」ってことだな。
まあ、そんなんあたり前田のクラッカーだろって言われたら、そのとおりなんだけれどね。
#死語攻撃
なあ、あんたはどう思う?
記事に対する反応を残すことでどんなことが得られると思う?