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年の差結婚と言う「情報」

あんたも年の差結婚って話題が忘れた頃にニュースとかで取り上げられているのを眺めているかい?

最近だとこんなニュースがあるよな。

俺個人としてはハライチの岩井さんはネタのときの淡々としたボケが印象的なお笑い芸人さんだけれど、ぶっちゃけあんまし印象に残っている「個性」みたいなものがなかったりもする。

いわゆるトークをしているところを俺が見ていないからなんだろうな。

でもそれを含めてハライチというコンビが成立しているってのもあるのかもしれないと思ったりもする。
実際、ハライチのネタってオモロイもんよ。

ヒトの個性ってのがどうやって花開くのかってのは俺みたいな凡人にとっては理解の外の話ってことなんだろうな。

で、その岩井さんが年の差結婚をなさったってのが上の記事だね。

「ああ、そう言う結婚をなさるヒトがまた出てきたね」くらいの印象なんだけれど、この手の話題が持ち上がると一定数のヒトが不快感を示しているって印象もあるんだ。

今回は年の差結婚と言うことに対する不快感がなんで生じるのかってのを想像してみる回だ。

ちっとこの感情の源泉について考えてみようぜ。


年の差カップルを見る

年の差カップルとしては加藤茶さんのところを真っ先に思いついたんだ。
加藤茶さんのご夫妻はもう12年目の結婚生活ってことらしい。

年の差があるってことを抜きにしても結婚生活を維持するってのはある意味才能みたいなものが必要になると思ったりもする。

お互いが違う個性を持っている以上はどこかに「合わない」と思う部分があるのは自然なことだもんね。

年の差があると、その「合わない」ってのを「年齢差のせい」って言う言い訳みたいなものが与えられているってのもあるかもって思うと、加藤茶さんのところが結婚生活を維持しているってのは結構スゴイことなのかもな。

何?原因が分かっているからこそ、対応方法の検討も出来るだろって?

いやぁ、年の差って言う物理的には縮める事が出来ない関係性が原因って判断した二人のヒトの人間関係ってさ、何か亀裂が入った時に対応のしようがなくね?

年齢差のある人間関係

いや、ぶっちゃけ結婚に限らずさ。
年齢差のある人間関係ってホンの数十年前には上下関係と密接な因果関係があったと思うわけよ。

今だって「先輩後輩」って概念はめっちゃ人間関係を作り出す入り口として作用している部分があると思う。

言い方をネガティブにあえてするとすれば、人間関係の「壁」を初手から作っている要素ではあると思うんだよな。

先輩には逆らわんでおこう。

そんなふうに考えたことが誰だって一度はあると思うんだ。

そう考えると年の差のあるカップルが結婚という非常に大きな決断をしたってのは、その一般的に存在すると思われている「壁」を乗り越えたヒトってことなんだよな。

なんで年の差結婚に拒否感を感じるのか

じゃあ、そんな「壁」を乗り越えた勇者たちをだ。

なんで俺たちは拒否感という感情を経由して眺めているんだ?

俺たちに乗り越えることが出来ないと思ったことを体現しているヒトの存在は、俺たちの存在意義を揺るがしかねないってことか?

いや、仮にそうだとするとだ。
どんだけ器が小さいんだって話になってくるんだよな。

さすがにその理由だけで拒否感を感じているってのは無理がある気がしてくる。
だって、俺たちはそれなりに立派に生きているじゃんか。
その立派な俺たちが自分の存在価値を他のヒトの結婚によって揺るがされるって感じるってのは、それはそれで違和感があるんだよね。

じゃあ、何なのか?

思うに、年の差結婚に「不幸」を想像しちまうからなんだろうな。

年の差という物理的な制約があるから、話題が噛み合わないはずだ。
年の差と言う物理的な制約があるから、体力差による行動範囲が違うはずだ。

そんな色んな理由を想像しちまう。

何しろヒトは生存戦略として「幸せ」よりも「不幸」に目が行くように出来ている。
生き物である以上は「幸せに生きる」ことよりも「長く生きる」ことの方がより価値が高い。
そのためには「幸せ」を見つけてそこに向かっていくよりも「不幸」を見つけてそこから遠ざかる方が生存確率が上がるってわけだ。

それを言ったら年の差結婚に限った話じゃないだろって?

その通りなんだよな。
年の差結婚ってのはその「特殊性」故に目に付きやすいってだけの話に思えてくるわけだ。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちの「他人の結婚を眺める」と言う行為は俺たちの「幸せ」の総量を増やすことになるんだろうか?

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