教師という休めない仕事
あんたの仕事は休みが取りやすい環境になっているかい?
世の中にはいろんな形の仕事があるよな。
俺みたいなシステム屋もいれば、役人さんもいるし、飲食業のヒト、農業を始めとする一次産業のヒトも居ると思う。
システム屋の場合は、結構分業して進めることが多いのと、期限までに仕事をこなせれば良いってところがあるから、結構休みは取りやすい状況にある方だと思う。
昔はそうでもなかったけれどね。
なんつーのか、システム屋の場合は「付加価値」ってのを全面に出して取れた商売じゃないと、単純に体力勝負になるから必然的に休みなんて取れっこナイスって感じになるんだよな。
ところが、世の中の仕事の中には構造的に休みを取りにくい物があるってのも事実だと思う。
今回は休みが取りにくい仕事ってやつを考えてみる回だ。
ちっと、「休む」ってことが俺たちの義務になりかねない今という時代に思いを馳せてみようぜ。
教師という仕事
休めない仕事って言って最初に思いついたのがこの「教師」という仕事だった。
俺らがガキンチョの頃、担任の先生が休むのってリアルに体調を崩したとか、身内に不幸があったとかくらいしか覚えてないんだよな。
いわゆる計画年休なんてのを担任の先生がとったのって記憶にあるかい?
でも、考えてみたらそれってなんでなんだろう?
子どもにとって教えるヒトが一定しているってのに価値があるって学問とかあるのかな?
そんなことを思ってちらっと調べてみたらこんなのがあった。
要するに子どもの変化を見抜くためってことなのか。
なるほど。
ん?
でもそうすると、それってもしかすると将来的にはAIに取って代わられちゃうってことなのか?
確かに40人くらいのクラスメイトの変化をヒトが見抜くためには接する時間を増やして、担任の先生の経験値に積み重ね記憶させていく必要がある。
ただ、「普段と違う」ってことを検知するだけならカメラやその他のセンサーで情報を集めて検知したほうが効率的なはずだよな。
なんなら学習効率を上げるために手法そのものだってAIを使って判断したほうがいいケースも多分に出てくるはず。
まあ、現時点ではそんなのは出来ないから、担任の先生の努力にすがるしか無いってことなのか。
教師が休めないって現実
教師が休めないってのが現実としてあるとして、それって子どもたちにとってどうなんだろうって思うよな。
確かに、俺がガキンチョの頃には先生が休むなんて一大事だったような記憶がある。
やれ子どもが生まれるだの、スゲー熱がでて倒れただの、そう言う「非日常」のなにかがないと先生ってのは休まないもんだと思ってた。
自分の母親が教員だったってのもその認識を強化していたような気もする。
普通に試験の採点を家に持ち帰ってやってたし、なんなら俺も丸つけを手伝ってた。
あの丸つけって作業って、結構不思議な作業だよな。
正解が連続していくと、「おお、いけ!」とか日本代表を応援するような気持ちで丸を追いかける感覚になるんだよな。
その回答をひねり出したヒトのことなんもしらないのにね。
おそらくだけれども、教員って職業をしているヒトって、そう言う「無意識の応援」ってのをしているってのがある気がするんだよ。
ただの丸つけをさせてもらっただけの俺ですら、生徒が結果を残したって事実に酔いしれていたんだから、実際に教えている教師にとっては、それはもう桃源郷の桃もひれ伏すような甘美な感覚ってのがあるような気がするわけだ。
そんな感覚を味わってしまったら、教師を休むなんてことが出来なくなっても不思議じゃないとは思うんだ。
でも教師のおかれている立場ってのは実に複雑で、かつ厳しいものだとも思う。
俺としては、分かりやすく大人の世界の持っている理不尽さみたいなものを学校で教えてもらいたいと思ったりする。
権力と暴力ってものを学校で経験していないと、実際に社会に出てから行きなりそのことに対面せざるを得なくなるってのは、どう考えても良いことじゃないと思うからね。
でも、今の世の中の論調では、その経験を子どもたちにさせることに否定的だし、法的に教師はその教育をするように定められていない。
結局教師は世の中の意見にがんじがらめにされて、休養をとることすらままならないって状況に追い詰められている。
それってさ。
おかしくねぇか?
子どもたちがなにかを成し遂げることだけを自分の中の達成感として抱えて、自らの魂を削りながら生きていくしかないのが教師なのか?
なあ、あんたはどう思う?
教育という分野での休養という必然を俺たちはどう考えていけば良いんだ?