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同意と否定と心地よさと幸せと
あんたにも何かについてひたすらに語り合いたいって思うことあるかい?
我が家の場合は、俺の語り合いたいテーマってのが家族に受け入れられ難いって現実がある。
まあ、俺自身の考え方や考えていることの偏りってのがめちゃくちゃでかいってのは現実だと思うけれどね。
例えば政治。
めちゃくちゃ大切なことだと思うけれども、俺たちの世代では政治について語ることはタブーだって世界観だったんだよね。
そんな世界観で生きてきたわけだから、普通だと家族の会話に政治の話題なんて出るわけないのが正常な家庭環境って感覚があると思うわけだ。
ところがだよ。
俺自身はめっちゃこう言う話をしたいわけよ。
なんつっても、今の世の中は政治的に俺たちの生活の分かれ道にいる気がするからね。
今回は俺たちが話したいことを話し合う幸せについて考えてみる回だ。
ちっとヒトと話すってことについて考えてみようぜ。
日常の会話で求められるもの
俺たちの日常会話で俺たちはどんな事を気にしていると思う?
いわゆる本音で語り合う事ができる相手ってのはめちゃくちゃレアだよな。
ぶっちゃけ家族でも親族でも本音で語る事ができるってのは珍しいことなんじゃないかって思うんだよね。
家族であっても、自分とは違う意見を持っていて、その違いについて論理的に考えることができるヒトってのは、そうそう居るもんじゃない。
家族であるからこそ「自分と同じ」感覚を持っていることを俺たちは息をするように自然に求めてしまうものだと思うしね。
確かに「そうそう、同じ同じ」って会話は楽しい。
なんの調整もなくそこに同じ意見があるってのは心地いいもんだ。
俺たちがその心地よさを求めるってのはごくごく自然な反応だと思うわけよ。
俺が求めている感覚
ところがだ。
俺が求めているのはそう言う「同意」に彩られた会話だけじゃないとも思うわけなのよ。
確かに「同意」は心地よい。
ほんとになにも努力することもなく得られた同意なんてのは心地よさの極みだとすら思う。
でも、その心地よさの先に得られるものってのを考えてみる。
自分と全く同じ意見なのだからそこには「発見」は生じ得ない。
そう考えたら、どうだ?
にわかに「俺とあんたが違う」ってことになんかの意味が生じる気がしてこないか?
否定されることと違いを浮き彫りにされること
そう考えたときに、「俺があんたと違う」ことってのは、必ずしも俺があんたを否定しにかかっていることとは違うって事実が出てくる。
逆もまた真で、「あんたが俺と違う」という意見を俺にぶつけてきても、それはあんたが俺を否定しにかかっているわけじゃなくて、「違い」ってものを具現化しているだけなんだよな。
ところが、俺の今までの経験上、「俺はあんたと違う」という言葉はかなりの確率で相手に「否定」の意思を伝えることになる。
ああ、違うんだよ。
俺はあんたを否定したいんじゃないんだ。
「違い」がそこにあることの意味を一緒に考えたいんだ。
ヒトがそれぞれ違う立場を抱えている以上は違いってのは必然的に起きるもんだ。
その上で、その違いってのがどういう意味を持つのかってことを各々の立場で考えて、その考えを共有するってことは、めちゃくちゃ意味が大きいきがすると思うんだよ。
なぜ、俺はそう思うのか?
なぜ、あんたはそう思うのか?
そのシンプルな問に対して考えを巡らすこと。
これがどれだけ俺たちの思考力を高めて、相手のことを考える切っ掛けになるのか。
ただただ、誰かを否定するより、その誰かがなぜそう考えたのかってのを考えて何らかの結論が自分の中にできる。
その上で、その結論に対して他の誰かが考えを巡らす。
こんな建設的なことあるか?
俺たちは俺たちの意見ってやつが年齢を重ねるごとに固定化していくって聞かされてきた。
でもさ。
こんだけ世界が千変万化している状況で、俺たちが固定化した状態で生き延びることなんてデキッコナイスじゃんか。
俺たちは自分の中にない何かを手に入れるために何ができるのかを考えるときに来ているのかもしれない。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちはどうやって、自分と相手の気持ちを具現化していくことができるんだろうな?