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謝り癖を考える

あんたも子育てであーだこーだと頭を悩ましているかい?

最近の我が家の息子を眺めていると、ワリカシ急に起きた変化があるんだ。

何かに付けてすぐ謝るって癖がついちまっている。

椅子の脚に自分の足をぶつけちゃっては「ごめんなさい」。
食事中によそ見をしちまえば「ごめんなさい」。
食器を片付けているときに、食器同士をぶつけては「ごめんなさい」。

いやぁ、俺はそんなことがダメって言ったことがないんだけれどね。

まあ、食事中のよそ見はお行儀の問題だから、しないほうが良いっちゃ良いとは思うけれども、それにしても事あるごとに謝りまくる。

今回はこの子どもの謝り癖について調べてみる回だ。

ホント、教育って難しいよな。

一般的な「謝る」という行為の動機

まず子どもに限らず、ヒトという生き物はなぜ謝るという行為をするんだろう?

直接的には謝っている対象のヒトに対して自分が「反省している」ということを伝えるため。
まあ、そらそうだ。

じゃあ、なんで「反省している」という情報を相手と共有したいと思うのか?

相手から許しをもらうためだよな。

じゃあ、なんで許しをもらうのか?

相手が許してくれないと、自分の立場を含めた環境が悪化するからだよな。
例えば相手が感情的になっていて、居心地が悪いだとか、相手が自分に対する悪評を世間に流布するかもしれない。

そう言う総合的なデメリットを避けるためにヒトは謝るってことなんだろうな。

あと、もう一つあるか。

謝ることによって反省している自分を自分で認めることができる。

これも形を変えた許しを請うって行為かもしれないけれどね。
つまり自分に許してもらうって目的だ。

どちらにせよ許しってのがキーワードっぽいな。

子どもが許しを請うこと

で、冒頭書いたとおり、我が家の息子は絶賛謝り癖発動中だ。

つまり息子は俺たち親に許しを請うているってわけだ。
学校での様子はまだ聞けていないんだけれども、少なくとも父親の俺と母親には謝りまくっている。

一体何から許されたいんだろう?

多分だけれども、椅子の脚に自分の足をぶつけたことが何かの不具合につながっていかないことは理解していると思う。
まあ、椅子やらコップやらが嫌な思いをしてしまうとかファンタジーな感じのことはもしか考えているかもだけどさ。

確かに許しを願うのは弱者の生き残り戦略って意味はあると思う。
子どもがその家庭の中で弱者に甘んじなければならない時期ってのは確かにあるし、今の我が家ではたしかに弱者だ。
#チャンネル権は息子が握って離そうとしないが

でも両親とも椅子の脚をけるなとは言ってないし、コップを丁寧に扱えとも言ってない。

想像するに、もしかしたら許してほしいんじゃなくて、認めてほしいってことなのか?

息子の中で「正しい」と認識している行動から外れた自分を自ら戒めるということを両親に訴えることで、自分が正しく育っていると主張しているんだろうか?

謝る先にあるものを伝える

だとすれば、息子には次の段階に進んでいって貰う必要があるよな。

つまりは何か失敗をして謝った次にやること。
原因の追求だ。

なんで失敗したのか?
環境か?
注意力か?
経験か?

問題の原因がわかった次は対策の検討。

どうしたら環境をより良くできるか?
どうしたら注意力を維持できるか?
どうしたら経験を積むことができるか?

対策が検討できたら次は対策の実行。

計画通り環境を変える行動ができているか?
計画通り注意力を高める行動ができているか?
計画通り経験を積む活動ができているか?

実行ができたら結果検証。

望み通りの環境ができたか?
望み通りの注意力を手に入れたか?
望み通りの経験を積んだか?

検証が終わったら改善。

どうすればもっといい環境ができる?
どうすればもっと注意力を高められる?
どうすればもっと経験を積める?

以下繰り返し。つまりPDCAサイクルってわけだ。

なあ、あんたはどう思う?

息子の謝り癖はこの大人にとって絶対に必要になるPDCAサイクルを経験させるチャンスなんだろうか?

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