人種と物語のオリジナル性
あんたは実に多くのコンテンツが世の中で生み出されていっていることをどう感じている?
日本でもアニメや邦画をはじめとして、実に様々なジャンルでの物語が紡ぎ出されている。
そのジャンルは小説やコミックはもとよりエッセイや知的好奇心を刺激するようなビジネス本までもが実に創作的に作り上げられている。
で、当然のように多くの国々でも物語は作り続けられていると思う。
アメリカのハリウッド映画なんて、それだけで1ジャンルになると認識することすらあるよな。
今回は、そんな物語を作り上げているヒトについて考える回だ。
ちっと、一緒に物語を作るヒトについて思いを馳せてみようぜ。
黒人のヒトが物語を作っていないらしい
今回、このことを考える切っ掛けをくれた動画がある。
KYOUさんはいろんなことについて実に多彩な表現でリアクションをしてくれる動画投稿者さんだ。
今回の動画では、今話題のアニメであるSPY×FAMILYのキャラクターを黒人に改変したイラストを公開したヒトがTwitterで叩かれているって背景を説明してくれている。
動画の中で触れられているんだけれども、どうも黒人さんというくくりで「物語を創作する」ってものに対する抵抗感みたいなものがあって、それゆえに創作者の絶対数がめちゃくちゃ少ないんだそうだ。
ちょっと調べてみたんだけれど、黒人文学という言葉があるらしい。
これを読んでみると、どうもやっぱり人種という切り口での社会風刺だったり、抱えている課題を物語化することが多いみたいだ。
日本の物語では人種を取り扱うことそのものがレアだよな。
だって、生活圏に多くの外国籍のヒトが増えているとは言え、まだまだ「日本人」ってシンプルな種類のヒトが生活の中心だもんな。
最近はポリコレの影響でアメリカの作品の中に登場人物として黒人やアジア人が採用される様になってきているけれど、シンプルにエンタメ作品としての創作に黒人のヒトが関わるってのは、たしかに俺の低めのアンテナには引っかかってきていない。
改めて調べてみると、例えばアカデミー賞の脚本賞を受賞した黒人のヒトは今までに4人しかいないんだそうだ。
確かに黒人のヒトが物語を創作することそのものの裾野が広がっている状態ではないってことなのかもね。
物語の改変と人種
で、そう言うように黒人のヒトがオリジナルの物語を作るってのがまだまだレアなわけだけれども、コンテンツを楽しみたいだとか、二次創作で楽しみたいってヒトは一定数いるみたいだ。
それ故に、今回紹介された様に人気アニメのキャラクターを黒人に変えてみるって楽しみ方をするヒトが出てくるらしい。
俺個人としては、作品に対する二次創作そのものは抑制するべきものじゃないと思う。
楽しみ方の表現の一つだし、何よりも元の作品への人気を後押ししている側面があると思うからね。
ただ、動画の中でKYOUさんも言っている通り、ポリコレの圧力に対応する形でオリジナルの物語をそもそも改変してしまうって流れはいただけない。
スパイダーマンを黒人にしてしまったら、それはもはやスパイダーマンじゃない。別の何かなんだよな。
で、どうせ別の何かにするなら、普通に黒人のヒーローが活躍するオリジナルの物語の方が良いと思うんだよね。
二次創作として人気アニメのキャラクターを黒人にしたファンアートはあっても良いと思う。
ただ、それで商売して「公式化」させていくって流れはどうにもいただけない。
あんたも実写版北斗の拳を見て「あれ?」って思っただろ?
同じ理由で実写版のシティーハンターも「あれ?」って思った。
もはや、両方とも「北斗の拳」である理由も「シティーハンター」である理由もないと思うんだよな。
そう言う別の物語として作ったほうが良いってやつだ。
内向きに作られる日本の物語
とか書きながらふと思う。
鋼の錬金術師の実写版はどうなんだよ?ってさ。
ぶっちゃけね?
俺、このキャスティング好きなんだよ。
舘ひろしさんが大総統になっているのは、実に絶妙な気がするわけね。
いやいや、おかしいだろ。
「ブラッドレー」なんて名前の日本人はいないだろ。
ってか鋼の錬金術師には日本名のキャラクターいないだろ。
なのにキャスティングのほとんどが日本人だろ。
そう思ってふと思う。
ああ、俺の中で日本人って存在が特別なものなんだなって。
鋼の錬金術師は日本人が生み出した日本人に向けた物語だ。
その物語がたまたま海外でも受けたってのはあるにしてもね。
なので、キャストがほとんど日本人でもしゃあないかって感覚がある。
そんだけ、俺の中で日本人ってのは物語に対してまだ閉鎖的な物があると思う。
アメリカの映画やアニメはちょいちょい入ってくるけれど、それ以外の国の作品ってあんまり入ってこない。
韓流ドラマとかは根強い人気があるらしいけれど、韓国アニメなんてパチもんのイメージが強すぎて見ようとも思えない。
基本的に国内産の物語の方が「俺向き」だって感じてるんだよな。
この感覚は差別に当たるんだろうか?
そうじゃないような気がするんだけれどね。
その感覚があるゆえに、鋼の錬金術師のキャストがほとんど日本人で成立されていることには違和感が無いんだ。
日本人向けの物語であるゆえに、人種が違うキャストが割り当てられることは「オリジナル」性を失っていないって感じるわけだ。
なあ、あんたはどう思う?
人種とオリジナルの関係ってのはどこに本質があるんだろうな?