自分のモヤモヤと向き合ってみる
あんたにも自分のなかにあるモヤモヤが気になって仕方ないタイミングってあるかい?
モヤモヤって言っても色々あるんだとは思うんだけれども、その実態がつかめないって感覚がある時、結構厄介だよな。
オッサンともなると、それなりの経験値を積んでいるので、大抵のことは「ああ、このパターンか」って折り合いをつけていくもんだと思うんだけれども、考えても感じ直しても、どうしても経験値の中にあるパターンとマッチしないモヤモヤ。
おそらくは「不安」ってやつだとは思うんだけれども、何に不安を感じているのかがわからない。
今回は、そんなモヤモヤと向き合ってみようとするオッサンのあがきを晒す回だ。
まあ、そんなに気持ちの良いものじゃないとは思うんだけれども、付き合ってくれよな。
漠然とした不安ってなんなのか
今の激動の世の中で、完全に未来を見通すなんてことは不可能だ。
少なくとも、個人が必要とする情報をすべて処理するには、ヒトの脳みそが対応出来る処理能力を遥かに超える処理能力が必要になるのは、まあ分かるよな。
つまり、俺たちは今日何が起きるのかもわからないまま、今日という日を迎え続ける毎日ってわけだ。
当然、仕事の予定は立っているし、そのための準備だって普通にこなしてはいる。
だけれども、それが予想できない何かに対するものではないってのは、アタリマエのことだよな。
予想できない以上、俺たちはそれに備えることは出来ない。
故に、それが起きたときに俺たちは臨機応変にその事象に対応しなければいけない。
そのために、俺たちは日々何かを学び続けて、臨機応変に対応出来る力を蓄えようとしているんだよな。
ところが、インターネットの出現による爆発的な流通情報量の増加は、俺たちから「コレをやっておけば大丈夫」って免罪符を奪うことになった。
大学を出ていれば大丈夫。
大手企業に就職していれば大丈夫。
どれもこれも陳腐化した価値観だよね。
子どもたちの抱える不安
俺たちの世代ですらそうなんだから、今の子供たちの世代は更に先行きが不透明だ。
LIFE SHIFTによれば、今の子供たちの世代は一生同じ職業でい続けることが出来ないってことらしい。
それほど、世界は流動性を帯び始めていて、今までのセオリーは通じなくなるってことなんだそうだ。
そんな中で子供たちはどうやって何を学んでいけば良いのか?
当然それもわからない。
今の義務教育の必要性は理解できるものの、一連の休校騒ぎでその義務教育すらまともに受けられていないってのが実態なんだよな。
息子との会話で、自分の感じたことを文章にする能力ってのが圧倒的に足りていないって感じることもある。
何かを見て、その感想を聞いても、「なにも感じていない」って回答がくる。
どんな世界に行ったとしても、自分の思いを語るってのは必須能力だとは思うものの、その「俺の感覚」が正しいって証明できるのか?って問われてしまうと、とたんに俺は俺の感覚に疑問符を突きつけてしまう。
それに、俺の感覚が正しいとしても、息子の表現能力だったり、感じる能力を伸ばす方法ってのも全く思いつかない。
正解の中から正解を選ぶ
インターネットで情報量が爆発的に増加している中で、俺たちは数多くの「正解」を見ることが出来るようになった。
ところが、どの「正解」も自分にとって最適ではないってのも事実だ。
そもそも最適って状態にたどり着くためには、俺たちはあまりにも細分化されてしまった。
どの方法をとっても「不備」を感じる程に、俺たちは俺たちの感性を細切れにしてしまったのかもしれない。
感じられる「不備」は「もっとこうすればよかった」を積み上げていくことになって、俺たちの感性はそう言う失敗の経験に押しつぶされそうになっているのかもしれない。
それが俺が感じているモヤモヤの根っこなのかもしれないな。
だとすれば、俺たちはどうするのか?
多分、「正解」は人それぞれ違うと思う。
それでも俺は選んでいきたいことがある。
オモロイって経験を記憶していきたい。
失敗の経験を上書きするくらいのオモロイ。
そして、俺の経験上、そおオモロイはヒトの行動の中にある。
あんたの行動の中に俺のオモロイがあるはずだと思うんだよ。
だから、俺はあんたの行動を眺めて、俺の中のオモロイを刺激していこうと思うんだ。
それが俺の今のモヤモヤに対抗できる唯一の方法だとすら思えるから。
なあ、あんたはどうだい?
あんたの中のモヤモヤ。あんたはどうやって対抗していこうか?
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