えんとつ町のプペルの敵役の課題
あんたも映画えんとつ町のプペルの批評記事を見ていたりするかい?
絶賛する記事も散見される中、同じくらいの頻度で酷評する記事もある。
俺自身の感想としては、酷評するまでではないにしても絶賛できるものでもないってのが正直な感想なんだよね。
俺のようなオッサンアニメオタクとしては、そのアニメを繰り返し見たいかってのが作品の評価尺度の一つに上げられるんだと思うんだ。
この繰り返し見るって欲求がアニメ業界を支えているってのがあると思うしね。
今回はこの繰り返し見たいって欲求について考えてみる回だ。
ちっと俺の感覚論に付き合ってくれよな。
俺たちが繰り返し味わうコンテンツ
実際、俺たちは繰り返し味わっているコンテンツってあると思うんだ。
ガンダムやらヤマト。スターウォーズ。
特にガンダムは未だにコンテンツを生み続けているよな。
ついには動くガンダムなんてものを作り上げてしまうような力強さがコンテンツに含まれているってことなんだろう。
あらためてこの繰り返し味わわれているコンテンツを振り返ってみると、ひとつの要素が見えてくると思うんだ。
それは戦争。
争いの構造ってやつだ。
しかもその争いの構造の中で、敵として描かれる存在が例外なく魅力的に描かれているよな。
ヤマトのガミラス。
ガンダムのシャア。
スターウォーズのダース・ベイダー。
特にダース・ベイダーは世界的に人気を集めている敵役だってのは間違いないと思うわけだ。
えんとつ町のプペルの敵役
えんとつ町のプペルでの敵役といえばトシアキになると思う。
出典:https://poupelle.com/
このトシアキなんだけれども、びっくりするくらいに描かれていない。
なぜ異端審問官を使ってえんとつ町を管理しているのかってことについて、えんとつ町の成り立ちを説明しているだけで、なんでトシアキがその真実を知っているのか、なぜえんとつ町を維持することを良しとしているのか、トシアキという人物がどのようなヒトなのか。
そのすべてが全く触れられていないんだよな。
俺たちが好きなコンテンツでは例外なく敵役が魅力的なんだってことを踏まえると、この演出は非常にマズイと思うんだよな。
敵役に葛藤があり、主人公に葛藤があり、その葛藤のぶつかりあいが物語の魅力になるってのは王道のアプローチ方法だもんな。
トシアキは魅力的に出来ないのか?
そもそもトシアキというキャラクターには魅力をもたせにくいんだろうか?
そんなことはないと思うんだよな。
実際、Lという腐る通貨という設定そのものは非常に魅力的な物にできると思うし、それによって守られているものをきちんと描くことで、トシアキという人物が何を犠牲にして、何を守っているのかってのはいくらでも描き様があったと思うんだ。
それを描くことで、ルビッチにも葛藤を与えることが出来ただろうし、よりプペルという揺るがない夢を浮き彫りに出来たとも思うんだ。
それでも、監督の廣田裕介さんや製作総指揮の西野亮廣さんはその選択をしなかった。
なぜなんだろう?
絵本という媒体の制約
一つあるのが絵本原作って制約があるんだと思うんだ。
絵本ってのは言うまでもなく「子ども」のためのもんだ。
話としては深みよりもわかりやすさを優先する必要がある。
実際、絵本のえんとつ町のプペルではLの設定のような複雑な背景は描かれていない。
※描かれていないだけであって設定はもともとあったってことらしい
そのあたりを削ぎ落として物語をシンプルにする必要があったわけだ。
そのシンプルな物語に映画としての肉付けをするって手段をとる以上は、物語の構造をダイナミックに見直すことは難しかったのかもしれない。
西野亮廣さんが抱える呪い
それでも。
それでもだよ?
俺たちはえんとつ町のプペルという物語に期待をしていたじゃんか。
その期待に答えるために敵役の魅力ってのは絶対に避けて通れないってことを西野亮廣さんはわかっていたはずじゃんか。
もしかしたら西野亮廣さんの夢を否定したヒトたちの象徴であるトシアキに魅力をもたせることが西野亮廣さんには出来なかったってことなのか?
だとしたら、映画えんとつ町のプペルは呪いの物語になってしまったってことじゃないか!
なあ、あんたはどう思う?
トシアキが魅力を出せなかったのは西野亮廣さんが抱える呪いのせいだったんだろうか?