みにくいマルコの悲しさの源泉
あんたはもう「みにくいマルコ」を読んだかい?
まだ読んでいないヒトが大半だとおもうんだけれども、予約販売分ってことでちょっと前に俺の手元に届いたんだよ。
で、早速読んでみたんだけれども、西野亮廣さんの表現って絵本ってメディアが一番しっくり来るのかもしれないって思ったんだ。
映画のえんとつ町のプペルは何度かnoteで書かせてもらったけれども、自分にとっては残念な出来上がりだったと思う。
それでも絵本のえんとつ町のプペルの価値って微塵も揺るぎない。
みにくいマルコを読んで、改めてそう思ったんだよね。
今回はみにくいマルコを読んだ感想を垂れ流しておこうって回だ。
ちっと俺の読書感想文に付き合ってくれよな。
モンスターという存在
このみにくいマルコという物語はえんとつ町のプペルと世界観を共通しているって触れ込みになっている。
それ故に多くのテイストがえんとつ町のプペルと共通しているんだ。
街の灯りだったり、建物の雰囲気だったり。
その共通要素は世界観として読者に感じさせるものがあると思うんだ。
ああこれは「えんとつ町」の物語なんだって。
今回その「えんとつ町」に新たな要素が加えられた。
モンスターだ。
どうやら人外のものたちが普通にいるって世界観になったらしい。
これはえんとつ町のプペルではありえない設定だったと思う。
なぜって?
だって、モンスターが受け入れられてプペルが受け入れられないって理屈が通らないもんな。
みにくいマルコのえんとつ町のようにモンスターがショウをしているなんて状況があったら、プペルもモンスターとして存在を受け入れられていていないと意味がわからなくなっちまう。
でもプペルは冒頭で本物の「ゴミ人間」だってわかった段階でその存在を拒絶されちまう。
この拒絶はえんとつ町のプペルという物語のコアの部分だと思うんだ。
なぜならこの拒絶を受けているプペルを受け入れたルビッチってことに意味があるし、それでも同調圧力に負けてしまうルビッチに意味があるからだ。
その意味ではこのみにくいマルコという物語はえんとつ町のプペルの続編とされているけれども、全く別の「えんとつ町」の物語だって思ったほうが良さそうだ。
モンスターって何の隠喩なのか
で、その新たに加えられたモンスターって存在。
ヒトとは異なる姿を持ち、ヒトではないって共通点で一致協力する存在。
これって何の隠喩なんだろう?
多分ポイントはモンスターが「集団」だってことなんだと思うんだ。
えんとつ町のプペルでのプペルは唯一の存在だった。
誰にも受け入れられることなく、当初の目的を遂行し続ける姿は西野亮廣さんご本人の写し絵だったんだと思う。
ではモンスターは?
ヒトではなく、ヒトを楽しませ、ヒトの幸福を願いながら、ヒトには受け入れられないと思っている集団。
これって芸能人、もしくは芸人の暗喩なんじゃないか?
モンスターがヒトに受け入れられながら一緒にはなれない物語
そう言うふうにモンスターが芸人の暗喩だとすると、この物語の悲しさがたまらなくなってくるんだ。
みにくいマルコでは主人公のマルコとヒロインのララがともにいることができない状況に追い込まれる。
その状況は最後まで改善されることなく、二人は別れ別れで過ごすことになる。
お互いの気持ちはお互いを思いやっているのにだ。
その理由はマルコがモンスターだからだ。
もっと言うならヒトが生き残るために作り上げた「社会」というシステムがあるためだ。
直接的にはララのフィアンセがララを取られることを恐れてマルコをはめたことが原因だけれども、そのはめたって行動も、それに乗っかったララの父親の行動も、全ては社会秩序って言葉に置き換えられっると思ったんだ。
別の言葉にすると「常識」ってやつになるのかもしれない。
つまりみにくいマルコという物語はモンスター(芸人)とヒト(一般人)はお互いを認め合いながら一緒にはなれない社会(常識)を描き出した物語ってことなんだと思うわけだ。
結局マルコもララもこの常識を打ち壊すことはできない。
ララは常識を否定したけれども、形を変えることはできない。
やるせないじゃないか。
悲しいじゃないか。
ディズニーを倒すと言っている西野亮廣さんが「世界を変えられない」物語を書いているなんて悲しすぎるじゃないか。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちはこの悲しい物語から何を受け取るのが良いんだろう?